奥州・日光方面に旅をした人びとの多くは越ヶ谷宿を通行したと思われるが、江戸時代前期の越ヶ谷宿の情景をつぶさに伝えたものは少ない。元和三年(一六一七)四月、京都の公卿日野資勝が勅命により、日光東照宮に参詣したが、このときの記録によれば、四月十二日に江戸を立ち、「センシユ(千住)ニテ馬ヲツギ、コシカヤ(越ヶ谷)ニテ昼ノ休ヲ仕候」とある。また帰路には同月二十三日に「カスカヘ(粕壁)」で昼休をとり、「荷物ハ此所留置……唯正さまコシカヤヘ御出ニ付キ拙子モ罷立申候、路次雨降大風ニテナンガン(難艱)ノ躰也」とあり、資勝は越ヶ谷で一泊した。そして翌日「コシカヤノ宿」へ帯一筋を与え、昼頃浅草に着いたとある(「日野資勝卿記」)。
奥州道がようやく整備されかけた時代で、雨風のときの道中の困難を想像できるが、残念ながら「日野資勝卿記」は、越ヶ谷宿の景観を記していない。しかし時代は下るが、元禄十六年(一七〇三)に、水野織部長福が書いた紀行文「結城使行」によって、往時の越谷地域の情景を偲ぶことができる。同年一月、下総国結城の領主水野日向守勝長が、領知高一万八〇〇〇石を賜わって城主格に列し、結城に築城を命ぜられた。この城地の検分役に水野家の家老水野織部長福が任ぜられ、同年二月九日江戸を出発し、日光道中を小山宿から東に路をとって結城に至った。この往返の道中と城地の検分の様子を記したのが「結城使行」である。これによると、駕籠で江戸を立った長福は、千住につくと、「ひろ/゛\と 奥州口の 霞かな」の句を詠(よ)み、先ゆきながい道中の旅を思って感慨にひたった。以下「結城使行」の内容はつぎのごとくである。
梅田・嶋根・竹ノ塚と過ぎ、草加に入ると昼となったので、町はずれの茶店で昼休みをとる。「花さかん そうかとぞきく 鳥の声」。草加を出ると川があるので、何川であると問うと〝大河〟であるという。また一人は〝あやし川〟であるといい、別の一人は〝あやせ川〟とも答えた。「鶯いかに 氷の隙を あやし川」。この川を越えると、道は右(出羽堀)も左(綾瀬川)も、流れ悠々とした川にはさまれ、興味のある所である。ただ溝川(出羽堀)の上に家を構えている家の様子があぶなくみえる。当所の名物だといって道端で焼米を売っていた。此所は加茂村だと聞いたが、加茂ではなく蒲生であるという者もいる。また加茂と蒲生は一村の中の地名であるともいう。いずれが本当だろうか。「道ぞ永き 日にやき米を 加茂蒲生」。板橋を越すと一里山(塚)があった。また小さな板橋を越すと右にせいぞういん(清蔵院)とかいう寺がある。河原曾根を過ぎると、〝こしがへ〟はそこだというので、駕籠の窓からのぞくと、左に弁才天の宮が神々しくみえる。越ヶ谷は、まことに聞いた通りの情緒ある里である。当所は草加から一里二八丁の地である。「願クハ花ノ山ヲ越谷」。
町の中に荒川という川が流れている。青水が漲っていて名にふさわしいいきおいのある川である。橋も大橋といわんばかりに横たわっている。「荒川や 氷をながす 風の勢」。橋を渡ると左の方に天神の社があり、かぐらの音がすがすがしく聞えてくるようである。町はずれまでくると小橋がある。ここから彼方をみると、越後路の山々(おそらく日光の山々であろう)の雪が春だというのに真白である。江戸から北にあたる山々の雪が消えないうちは、春がさかりになっても暖くはならないと古老が語ったというのは、この山々のことであろう。右の方にはつくばの山がよくみえる。大林村のわかれ道にそって家々が二、三軒ある、ここは大房の里であるという。または大里村ともいうとか。道から左に入ると〝をいれのやくし堂〟がある。また大林村には勢至の木という三またになった榎の大木がある。木の根元に勢至菩薩の石仏三躰が祀られているが、そのいわれを知りたいものである、「こや弘誓(ぐぜい) 霞の海も 船後光」。右にシウゾウ院という寺があり左に大六天の宮がある。下まくりや村である「佐保姫や 空恥かしき 下まくり」。一里山がある。上まくりという、ここも村である。「上まくり はかまばかりや つく/゛\し」。人々は下まかり、上まかりとこの村名をおぼえたという。「上も下も まかり出るや 月花見」左の方は道にそって川である。漁をしている者が多い。川端の茶店はみなかけ作りである。夏はさぞ涼しいであろうというと、土地の者が、仰せのごとくこの川は荒川の流れで水勢強く、炎天にも夏を忘れて立どまる旅人が多いと答えた。道中にかかる小さな板橋を三ヵ所越えると、大ゆだ村という里がある、道行人が花の枝を折ったが、これをあるじの男に見咎められ、ひどくののしられている。この様子をみて「おらるるや 花に垣せで 大ゆだん」と詠んだら、傍らの者が、ここは大枝村だそうだといった。「花盗人 見ずや大枝 村目付」。
水野長福は、日光道中越谷地域をこのように記している。当時の越谷地域の情景を想像する一つの手がかりとなろう。それでは奥州・日光道や越ヶ谷宿がいかなる経過で成立し、いかなる機構と機能をもっていたかを、つぎにみていくことにしよう。