伝馬の制度は江戸幕府によってはじめて設けられたものではなく、古くは律令制の駅馬や伝馬の制度にはじまるものである。その後戦国大名のうち小田原の北条氏、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏などが、この伝馬の制度を採用したし、豊臣秀吉も全国統一ののちには伝馬の制を広く利用し、公用の旅行者や物資の輸送に当該地の人馬を無賃あるいは有償で徴用していた。伝馬の特徴は、人や荷物を運ぶ人馬を宿(しゅく)継ぎで交代させながら輸送させるリレー方式であったので、道中二里か三里ごとに宿駅を設置する必要があった。
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原戦の勝利によって天下を掌握した徳川氏は、翌六年、まず東海道に伝馬の制を布き、道中の宿場を指定した。このとき指定された宿場は、一日馬三六疋を提供する義務が課せられたが、その代償として一部の地子(宅地税)が免除された。ついで同七年、中山道に伝馬の制が布かれた。奥州道の伝馬制も、慶長七年頃の宇都宮宿に対する地子免除や、つぎに引用する岩槻城主高力清長による粕壁新宿取立の文書(関根家文書)から、この頃設定されたものと思われる。
粕壁新宿任二先例一故は、早々自二前々一居住之者共相集、定成候之儀厳密に可レ致二沙汰一者也
(慶長七年)寅九月十二日 高力(花押)
図書弾正
これら各道中の宿駅は、以前から集落をなしていた所もあり、また新しく人家を集めて宿場を形づくった所もある。東海道の宿場の中には、すでに鎌倉時代から街道筋の集落であったものも多いというが、近世に新たに成立した宿場は、いずれも街道に面して直角に屋敷割りがなされており、人工的に区画されていることが明瞭で、古くからの自然集落ではない。およそ関東の宿場の大半は、近世に入って幕府の要請で造成されたものである。
このように、徳川家康が伝馬制を全国的に採用して宿場や街道を整備したが、当時この街道や宿場の管理にあたったのは、関東総奉行や代官頭、あるいは年寄(老中)の職にあるものであった。その後、幕府職制の整備とともに、万治二年(一六五九)新たに専任の道中奉行が設けられ、大目付高木伊勢守守久が初代の道中奉行を兼任した。さらに元禄十一年(一六九八)、道中の諸問題は地方行政にかかわることが多いことから、勘定奉行からも道中奉行を出すことになり、松平美濃守重良がこれを兼帯した。これより大目付と勘定奉行とから一名ずつが道中奉行を兼帯し、幕府支配の五街道その他、道中に関することを管掌させるようになった。