日光・奥州道中の成立

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埼玉東部沖積地帯の自然集落と、その集落を結ぶ古道とは、一般に河川の流路にあたる自然堤防上にあった。当地域における荒川筋(元荒川)の自然集落と古道も例外ではない。江戸方面から野州・上州さらには奥州に通じる道は、幾通りか指摘されようが、その一つに、千住・八条・大相模を経て瓦曾根の荒川堤防上を進み、六本木から観音横町を通って越ヶ谷の中町に出る道が挙げられる。この道は、さらに中町から本町を通り、再び荒川堤防上を四町野・荻島・野島・末田を通って台地上の岩槻に抜けるものであり、いわゆる奥州路の一古道であった。徳川氏による奥州道中の設定は、すでに文禄三年(一五九四)伊奈忠次により、千住大橋が架設されていたので、千住から越ヶ谷を経るこの古道が選ばれることになったとみられる。

 因みに『徳川実紀』によると慶長十七年(一六一二)、幕府は道路堤防の制を設け、奉行として中山道筋の浦和に小笠原縫殿助長房、同じく鴻巣に中川与助忠次、東海道筋の藤沢・鎌倉へ飯田右馬助昌在らをそれぞれ派遣して、道路や堤防の修築を行なったといわれ、奥州道筋の越ヶ谷には、大沢忠次郎基雄が派遣されている。

 また、越ヶ谷から荒川を渡り、大沢・間久里を経て粕壁・幸手への道路が新しい奥州道として開発された年代はつまびらかでないが、前述のごとく、慶長七年に粕壁新宿先例のごとく取立るという高力清長の文書がだされているので、おそらくこの頃から奥州道として整備されたものであろう。このとき岩槻城下町を通過して幸手に至る古道筋を奥州道に用いなかったのは、岩槻城が江戸防衛のもっとも近い拠点であったのでこれを避けたものか、あるいは直線近距離を選択したものか、あるいは水田地域の開発促進をねらったものか確かではない。しかし将軍の日光社参には、寛永年間以後豊島郡岩淵から鳩ヶ谷・大門を経て岩槻を通り幸手に出る古道が、日光御成道と称されて将軍社参の通行路に用いられた。この道は鎌倉時代のいわゆる鎌倉街道であったといわれる。

堤防上の古道(千疋付近)

 また千住からまっすぐ草加を経て越ヶ谷に至る新道(旧国道四号線筋)の開発は、宿篠葉村(現草加市)の豪士大川図書が慶長年間村民とともに建設を進めていたといわれる。『徳川実紀』によると、元和三年(一六一七)四月、将軍秀忠の日光社参のとき、千住から草加の間で荷物をもった下部のものが風雨に咽(むせ)んで死んだもの一三人を数える、とあるので、日光社参の秀忠一行は、このときは草加の新道を通過し、越ヶ谷を経て岩槻城へ入ったともみられる。なお『草加の歴史』によると、千住・越ヶ谷間が四里の遠距離であり、継立人馬が難儀していたため、これを奉行所へ訴えあげた結果、寛永七年(一六三〇)九月に、草加が、正式に越ヶ谷・千住両宿間の中間宿に指定されたという。

 その後、奥州道中は寛永十三年の日光東照宮造営以来東照宮参拝が制度化され、これが年中行事になるにおよんで、千住・草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸・幸手・栗橋中田(合宿)・古河・野木・間々田・小山・新田・小金井・石橋・雀宮・宇都宮・上中下徳次郎(合宿)・大沢・今市・鉢石の二〇宿間を通称日光道中と称し、白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂・白河の一〇ヵ宿を奥州道中と称するようになった。

日光・奥州街道宿場

 なお、越ヶ谷と大沢の境を流れる荒川の架橋年代は不明であるが、越ヶ谷浜野家文書によると、この境板橋(大沢橋)の掛替工事が、伊奈半左衛門忠克によって明暦元年(一六五五)に施工されているので、境板橋の架設は比較的早い頃であったとみられる。その後、修復は別として掛替工事は、延宝三年(一六七五)と元禄四年(一六九一)に施工されているので、おおむね二〇年ごとに掛替え工事が行なわれていたことが知れる。これによって架橋年代を逆算すると、寛永十二年(一六三五)あるいは元和元年(一六一五)ごろと推定されよう。