日光道中第三駅の宿場を形成した越ヶ谷は、郷社久伊豆社や会田出羽陣屋の存在から、奥州路の古道にあたる古くからの一集落であったとみられる。近世になって、越ヶ谷郷が解体され行政単位の各村々が独立していくなかで、近世宿場の設定にともない、越ヶ谷郷の越ヶ谷をとった越ヶ谷宿が新たに設けられた。そして、街道に面して直角に屋敷割りが施され、宿場に適応した人工的な家並が形成された。この宿場としての越ヶ谷を造成したのは、もとの越ヶ谷のほか四町野・花田・瓦曾根などの農民であったろう。正保初年(一六四四~)成立の「武蔵田園簿」によると、当時越ヶ谷村は高一一三五石六斗三升二合の村であった。それから五〇年後の元禄八年(一六九五)の検地には、村高は一五九八石六斗五升三合であり、この反別は一八六町九畝二二歩である。このうち一四町八反三畝一六歩が、街道にそった屋敷地であり軒を接した町場を形成していた。この町場は元荒川の境から瓦曾根の境まで全長九町二〇間にわたり、元荒川の境から二町四六間が本町、一町が中町、五町三四間が新町とそれぞれ行政単位の町に区分されていた。「越ヶ谷瓜の蔓」によると、はじめこの町割りのとき、本町と新町とに二分されたが、この中に会田出羽〝持切り〟(全所有)の場所があったので、とくに当所を中町と名付けて町割りをやりなおし、越ヶ谷を三町に区分したと伝える。
当所は、『新編武蔵風土記稿』によると、文禄年間(一五九二~九六)すでに二、七の六斎市が開かれていたといわれ、その後宿場町として、また商品交易の場として、近郷近在の中心的な交通・商業都市として発展していった。なお越ヶ谷と大沢における町と村の使い分けは、行政面では村として、交通面では町として扱われたが、後になると、通常越ヶ谷町・大沢町と呼ばれるようになった。