宿場町大沢

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大沢は、はじめ奥州道の宿駅となった越ヶ谷の、伝馬上の助合村として成立した。当所も近在の地、とくに鷺後や高畠の農民が街道筋に移転して造成した新興の町場であり、その家並は、越ヶ谷と同じく街道に面して直角に区画されている。前にも引いた「武蔵田園簿」では、大沢村の村高は八二八石四斗一升一合であったが、元禄八年(一六九四)の検地の結果、高一〇六四石六斗一升九合、反別一四七町一反一畝一歩となった。このうち屋敷地九町四反一畝二八歩が、主として街道にそって集中していたことは、越ヶ谷と同じである。ただし、元禄九年の大沢町年貢割付状までは、屋敷地は二町一反二畝二七歩となっており、翌十年の年貢割付状から九町四反一畝二八歩と改められている。つまりおそくも正保年間から元禄検地までの約五〇ヵ年の間に、屋敷地が七町二反余も増大していたことを示しており、急速な町場の造成を窺うことができる。

 この屋敷地は、元荒川を境に大房村境まで、全長九町二七間あり、行政村として一村であるが、北から上宿(上組)、中宿(中組)、下宿(下組)と組分けされていた。ただ大沢は、商業機能を備えた越ヶ谷とは趣を異にし、純粋な宿場形態を備え、しかも旅籠屋や茶屋のほとんどが下宿や中宿に集中していた。はじめ当の大沢と越ヶ谷は、隔日交代で伝馬業務をつとめ、おのおの独立した機構をもってこれにあたったが、のち両町の伝馬機能が合体され、両町を一括して越ヶ谷宿と総称されるようになった。したがって、交通行政上では、おのおのが、越ヶ谷宿のうち大沢町、越ヶ谷宿のうち越ヶ谷町と呼ばれた。

現在の大沢町の家並