近世の伝馬制度にしたがい、各宿駅では、伝馬継立のための一定の輸送人馬を備えることが義務づけられた。この代償の一つとして、宿駅における屋敷地の年貢が免除されることがあった。これを地子免許という。早い例では、慶長六年(一六〇一)に、東海道中品川宿等に五〇〇〇坪の地子が免除されている。奥州道中では、宇都宮宿が慶長七年に宅地の全高が免除になったといわれる。
越ヶ谷宿の地子免は、「大沢町古馬筥」によると、寛永十七年(一六四〇)、越ヶ谷・大沢両町に各六反歩宛、計一町二反歩の地子が免許になったという。また福井家文書「往還諸御用留」の記録では、慶安三年(一六五〇)から地子が免除されたとあるが、確実なことは不明である。確認できるのは、元禄九年(一六九六)、越ヶ谷・大沢両町に各五〇〇〇坪宛(一町六反六畝二〇歩)、計一万坪の地子が免許になっていることである。この一万坪の地子免は、町内の各伝馬役百姓にそれぞれ割渡されたが、両町の地子免割当ては次のごとくである。
越ヶ谷町 伝馬役百姓 一二〇軒半 一軒に付一畝七歩八厘宛
歩行役百姓 二一軒 一軒に付 十二歩六厘宛
割余り分 一〇坪 市神社人勘太夫へ割当
大沢町 伝馬役百姓 七三軒 一軒に付二畝五歩宛
歩行役百姓 五軒 一軒に付一畝一歩宛
割余り分 一〇〇坪 問屋場へ割当
これら地子免をうける役百姓は、街道に面した屋敷を所持していなければならない。この屋敷の間口の長さが六間以上の家が、〝一軒役〟と称された伝馬役屋敷であり、六間未満の家が〝半軒役〟あるいは〝小役〟と称せられた歩行役(かちやく)屋敷である。このうち伝馬役は伝馬の馬を負担するものであり、歩行役は伝馬における人夫を負担した。
両者はともに、江戸時代を通じて株によってその数が固定されており、この屋敷株を所有している者が本百姓身分として、町政その他に参加できる一人前の住民であった。その他は〝地借〟〝店借〟といわれ、身分的にも明確に区別されていた。このように両町とも屋敷株の総数は固定されていたが、株の所持状況は頻繁に変動していたので、ついには同一人が四軒五軒という複数の伝馬屋敷株を所有することもあったし、逆に一軒屋敷を複数の者が分割して所有することもあった。その際は、分割された数によって〝二分の一株〟〝四分の一株〟なかには〝七分の一株〟という細分された形で所有することもあった。そして地子の免除や伝馬負担の割合も、この所有している屋敷株の数量によって割当てられることになっていた。