伝馬役の負担者

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これら伝馬屋敷株の所有者は、原則として、すべて伝馬の負担を負うことになっていた。しかし、宿場業務にたずさわる役人はこの伝馬負担から除かれた。これを〝役引〟という。

 越ヶ谷町の役引は、宝永四年(一七〇七)の書上げによると、年寄五軒・帳付三軒・馬差五軒・定使三軒・組頭一一軒の計二七軒であり、越ヶ谷町百姓一二〇軒半から役引二七軒を差引いた九三軒半で伝馬役を負担することになっている。このなかに問屋(名主兼務)が含まれていないのは、はじめから問屋が伝馬屋敷数から除かれていたからである。すなわち

 本町 問屋一軒 伝馬百姓五四軒  歩行役一五軒

 中町 問屋一軒 伝馬百姓一一軒  歩行役五軒

 新町 問屋一軒 伝馬百姓五五軒半 歩行役一一軒

で、問屋を除いた伝馬百姓が一二〇軒半である。

 また越ヶ谷町の歩行屋敷については、本町では一年に銭一貫四五〇文を地方入用(町費)に納入することで伝馬負担を除外しており、そのかわり幕府からの宿場助成金の割渡しはうけられないことになっている。中町および新町の歩行屋敷では、伝馬役の三分の一負担、そのかわり宿場助成金の割渡しも伝馬役の三分の一という割合に定められていた。

 大沢町では、享保六年(一七二一)の大沢町議定書によると、歩行屋敷二軒で伝馬屋敷一軒分に勘定し、大沢町の歩行屋敷が五軒であるので、二軒半を伝馬役に組入れ、総計伝馬役を七四軒半としている。このうち年寄六軒、帳付二軒、馬差三軒、計一一軒が、伝馬役の三分の二の役引という定めになっている。このように両町では役引の方法なども異なっていた。