問屋

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村や町の行政上の諸業務を取扱う役人の長を名主と呼んだように、交通上の諸業務を取扱う宿場の長を問屋と呼んだ。越ヶ谷宿の問屋役は、越ヶ谷町の本町・中町・新町がそれぞれ行政区画の単位であったので、三町から一名宛、大沢町は一町が行政区画の一単位であったので一名、総数四名の問屋が置かれていた。

 問屋の勤務方法は、時代によって変動があったが、安永二年(一七七三)からは、四名の問屋が月番交代で一年に三ヵ月宛の勤務をすることになった。当番月は正・八・十一、二・四・十、三・六・九、五・七・十二月という組合せであり、一名宛の順番勤めである。ただし閏月にあたったときは、本町・新町・大沢町の問屋が各一〇日宛勤務し、小規模の町である中町の問屋はこの間助勤という方法がとられた。

 また、問屋役の役料についてはつぎのようであった。越ヶ谷宿では原則として問屋を名主が兼帯することになっていたので、問屋の役料は名主給料に含まれ、問屋役料は形式である場合もあった。たとえば大沢町の名主問屋江沢氏の名主給料は、伝馬役一軒分の免除のほか、江沢氏所持地のうち一〇町歩、この高七二石三斗余にかかる地方入用費(町費)が役高引として免除されていたので、問屋役料としては江沢氏所持の問屋場敷三畝一〇歩の地子免除だけであった。しかし文政七年(一八二四)十二月から一年に問屋役料が金五両二分に改められたが、この給金のうち金二両二分は、江沢氏所持の伝馬屋敷にかかる往還向の費用のうちに組込まれ、金一両は問屋場敷の地代金名目であったので、問屋役料は実質的には金二両であった。このうち問屋場敷の地代金は、宿入用費からの支弁でなく、伝馬役百姓から家別割に徴収されて江沢氏に納められていた。

 一方、越ヶ谷町の名主・問屋の役料は、本町では名主の役料が高二八石八斗の役高引で、問屋役料は伝馬屋敷株二軒分の役引である。中町では名主の役料は不明であるが、問屋の役引は伝馬屋敷株一軒分の役引である。新町では名主給を含め、伝馬屋敷株一軒分の役引のほか一年金一〇両の役料であり、各町それぞれ異なった役料であった。しかしこの役料は、江戸時代を通じかならずしも固定されたものでなく、場合によって変動があったようである。なおこれら名主・問屋は、はじめ町内の古くからの実力者が世襲でこれにあたった。たとえば大沢町では江沢家、越ヶ谷町では会田八右衛門家などが挙げられよう。