問屋下役

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問屋・年寄ならびに本陣は宿役人であるが、その下にあって実務にたずさわる者を問屋下役と称した。この下役には、帳付・人馬差・定使などの職掌がある。人馬差とは、人足差・馬差の総称であり、問屋場に継送られてきた旅人や貨物を、宿人馬や助郷人馬に割り振りしてこれを継立てさせる役である。これをまたいちいち記帳しておき、日々に集計して賃銭の支払いなどの原簿を作成するのが帳付の役である。また現在の郵便配達のような役で、廻状などの書状を配達したり、そのほか問屋場の雑用的な仕事をするのが定使であった。

 これら帳付・人馬差・定使の各定数やその役料は、そのときによって変動があったが、享和二年(一八〇二)の記録によると、帳付は越ヶ谷町が二名、大沢町が二名の計四名が定員であり、二名宛交代で五日間づつの勤務である。役料は伝馬屋敷一軒分の役引のほか、一年に金四両一分の給金であった。人馬差は越ヶ谷町から三名、大沢町から二名の計五名が定員であり、同じく二名ずつが交代で勤務した。役料は帳付と同じく伝馬屋敷一軒分の役引のほか金四両一分の給金である。定使は越ヶ谷町が三名、大沢町が一名で一〇日目毎の交代勤務、役料は越ヶ谷町が一年に金一両、大沢町は金三分その他地方入用費から大豆・麦・籾などの現物を支給することになっている。もっともこの定使は往還向の役だけでなく、地方向の役をも兼ねていたのである。

 これら問屋場勤務の下役は、気の荒い馬士や人足の指図をし、また大名や旗本の家臣らの横暴に対しても、適当な応待をしながら、毎日何百人何百箇という通行人や荷物の継立てを支障なく取りしきらねばならなかった。したがって気転がきき、しかも度胸のある者でなければ問屋の下役は勤まらない。それにもかかわらず、これら下役の待遇は決して満足なものではなかったようである。

 年不詳であるが、問屋場詰の下役が越ヶ谷宿問屋宛に差出した願書がある。これによると、「問屋場詰の下役は、帯刀以上の人びとに対する応待そのほか御休泊にあたっての御機嫌うかがいに毎日神経をすりへらしている。そのうえ、人馬賃銭や旅籠賃の受取勘定にも、つり銭の間違いなどがないよう気を配らねばならない。しかも先触通行の刻限に合せ、夜詰や早朝詰をして人馬の手配をしても、通行が延引になることがしばしばである。その際は手配した人馬はすべて無駄になり、助郷出人馬に大きな損害をかける時もあり、宿と助郷の中に立って下役の苦労は並大抵ではない。また諸大名などの通行や休泊には、粗相のないようにとくに気を使っているが、その多くは先触時刻よりも延着することが普通である。このため、行列の出迎えには弁当を持参していないので、延着のときは外食などの雑費がかかり失費が大きい。宿役人は出勤表札をかかげて問屋場に詰めていても、二階に引こもっていて下役の面倒を見ようともせず、伝馬業務をすべて下役にまかせているので迷惑している。以上のように問屋場下役は常々たいへんな苦労を重ねているので、この苦労に報いる御慈悲ある処置を願いたい」という趣旨である。つまり問屋下役の待遇改善を訴えたものであるが、下役の業務やその苦悩の一端が知れるものである。