問屋場

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宿役人や問屋下役が常勤し、人馬の供給や休泊の諸業務を処理した所を問屋場と称した。各道中の宿駅には、一ヵ所の問屋場が設けられているのが普通であったが、越ヶ谷宿では越ヶ谷町と大沢町に各一ヵ所宛の問屋場が設けられていたので二ヵ所である。

 問屋場の設置されていた場所は、越ヶ谷町でははじめ、本町・中町・新町の各当番にあたった問屋の屋敷が問屋場にあてられていたが、宝永四年(一七〇七)二月、一定の問屋場がないのは不便であるとして、中町の会田五郎平大屋敷の内、間口六間、奥行一五間の屋敷地を正式に問屋場に定めた。以来問屋場に使用する家屋の修復などの費用はすべて宿入用費から支弁されることになった。

 大沢町では、当初から大沢町名主・問屋の江沢家大屋敷が問屋場に使用されていたが、同じく宝永四年の八月、江沢家屋敷の内間口六間、奥行一五間の敷地を、改めて問屋場と定め、この修復費用もまた宿入用費から支弁されることになった。越ヶ谷宿に設けられていたこの二ヵ所の問屋場は、はじめそれぞれが独立した機構をもって隔日交替の当番勤めをしてきたが、伝馬需用の増大とともに、別々の機構では障害をきたすようになった。すなわち問屋場交替の際の申送りなども徹底せず、問題が生じた際の責任の所在をめぐって、両町の役人どうしの紛争が絶えなかった。しかも出人馬の比率の大きくなった助郷人馬が、その連絡の不備から、どちらの問屋場に詰めてよいか戸惑い、伝馬継立に支障をきたすことが多かったという。

 このため安永二年(一七七三)二月、ついに両町惣百姓大評定のうえ、伝馬業務を両町合体し、問屋場各一〇日交替の〝打込勤(うちこめづとめ)〟に改めることに決定された。この打込勤とは、往還向御用勤めに要する両町の負担や役人を一つに合せ、大沢・越ヶ谷の区分に関係なく両町お互いに交流し合うことをいった。つまり、大沢町問屋場に、越ヶ谷町の宿役人が勤務することもあるし、逆の場合もある。しかも両町の伝馬負担や、両問屋場の諸費用も一緒にして計算されるのである。

 この時に定められた両町の伝馬負担の割合は、越ヶ谷町の伝馬役を八五軒、大沢町を五五軒ときめ、一軒前二両三分を出金することになった。この資金は伝馬や問屋場の諸経費に充当するものである。このほか臨時費用を含め往還向の諸経費の出金割合は、すべて大沢町が三九・三%、越ヶ谷町が六〇・七%の比率で負担することに定められた。ただし藻刈見分・普請見分等で休泊した諸役人の賄入用分は、実際は地方入用費から支弁されるものであり、地方入用分の出金割合は越ヶ谷町六分、大沢町四分で計算されることになった。