問屋場の諸経費

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それでは両町打込勤後の問屋場の諸経費を、大沢町本陣福井家の「往還御用留」によってみてみよう。まず、両町伝馬百姓が負担する金二両三分の往還向出金を集計すると、大沢町五五軒、越ヶ谷町八五軒で合計金三八五両となる。この資金から支出される問屋場経費のうち、伝馬役や問屋場下役の人件費などを、享和二年(一八〇二)の記録でみると、

  金 三二両 帳付四人馬差四人 一人に付金四両

  金 六五両 歩行役四〇人   一人に付金一両二分二朱

  金一三〇両 馬役 四〇人   一人に付金三両一分

  金  一両 日〆方 一人

  金  一両 馬差四人へ割   一人に付金一分

  金 一〇両 助合

  金一両一分二朱 泊帳付一人

  金九両二朱永四二文 小軒

  合 金二四九両二分永四二文

である。このうち金六五両歩行役四〇人、一三〇両馬役四〇人とあるのは、越ヶ谷宿常備人馬五〇人五〇疋のうち、当時囲人馬(不時の急用に備えた人馬で実際はあまり使用しない)一〇人一〇疋を除いた四〇人四〇疋が両町伝馬百姓が負担する宿人馬であった。これを両町の百姓が、馬士一人一年に付金三両一分、人足一人に付金一両二分二朱の給金で、各四〇名ずつ雇傭していたわけである。つまり両町百姓はその伝馬負担を専門の馬士や人足に金銭で頼んでいたのである。また金一両を馬差四人に割っているのは、馬差に対する臨時手当でもあろう。金一〇両の助合とは、越ヶ谷宿のなかでも旅籠屋が集中している大沢町の方が、往還向の御用が頻繁であるので、大沢町百姓に対する補助金支出である。なお、問屋場経費から支弁されたこの補助金は、その後文政十一年(一八二八)、問屋場経費からの補助金支出は不公平であるという、大沢町旅籠屋一同からの出訴をうけ、越ヶ谷町から別途に支弁されることになった。また、九両二朱永四二文の小軒分とは、小軒とも称された歩行屋敷の伝馬負担は、伝馬役に対する三分の一勤めとなっていたので、計算上一軒分に取扱われた小軒に対する三分の二の償還金である。

 以上が、伝馬雇傭給金その他問屋場の諸人件費などである。このほか、問屋場の需用費や御用旅籠屋の補助費などの雑費を、同じく享和元年から同二年にかけての記録でみると、第19表のごとくである。当時の銭相場は、金一両が銭六貫八〇〇文なので、金に換算するとこの問屋場の諸雑費は約一〇〇両二分にあたる。このほか問屋場から支出されるものには、日光門主や日光勅使らの接待費があり、この年は銭一五四貫七一七文、金に換算して約二二両三分であった。したがって、越ヶ谷宿享和二年度の問屋場総支出を集計すると約金三七二両三分である。前述のように、両町百姓の往還向出金の収入合計は三八五両であるので、享和二年度に限っての収支勘定は正常であったと見られる。ただしこの年は九月に関東一帯の大水害があり、日光道中の通行は途絶状態が続いた。このため日光門主らの通行は主に日光御成街道が使用されたので、それだけ経費が少なくてすんだのである。普通往還向諸経費は、当初の予算を超過することが多く、この超過分はそのつど伝馬役百姓から臨時に徴収された。

第19表 越ヶ谷宿享和2年度往還向諸雑費支出
貫 文
12月15日~1月25日 銭115.847
1月26日~4月25日 〃60.162
4月26日~6月25日 〃139.988
6月26日~8月25日 〃105.29
8月26日~12月15日 両分
金8.3
銭623.326
     両 分 貫 文
計  金8.3   銭 623.326

 このほか宿財政には、宗門人別帳の作成や用悪水普請費用など一般行政の諸費用があるが、越ヶ谷宿では往還向と地方向とが分離されており、しかも行政区が四つにわかれてその財政規模もおのおの異なっていたので、地方向の統一的な財政内容をたしかめることはできない。しかし隣の粕壁宿は、往還向・地方向とも一本に取扱われていたので、宿場の財政内容を知るうえで便宜であり、また越ヶ谷宿の往還向収支諸勘定と比較するためにも、天保六年(一八三五)の宿賄諸入用勘定帳を掲げることにしよう。まず収入としては、

  金一六両三分永九〇文二分 宿持屋敷賄分

  金三五八両三分永一六六文七分

   伝馬屋敷一〇二株、一株に付金三両二分

   外歩行役屋敷一両三分永一六六文七分

  金一〇両 人馬賃銭一割五分増のうちから繰入

  金一両三分永九六文四分 惣百姓持屋敷年貢引銭地代分

となっており、四口の集計は三八一両一分と永三五三文三分である。支出としては、

  金一〇〇〇両   御伝馬三〇疋給金 一疋に付金三両一分永八三文三分

  金七五両     伝馬人足三〇人分給金 一人に付金二両二分

  銭七三貫二一六文 馬雇上賃銭

  銭五三貫三〇〇文 人足雇上賃銭

  金九両二朱 銭一一四貫六二一文

   日光門主通行休泊賄分

    金四両二分二朱 銭六貫九〇〇文 眤懇分

    金一両二分   銭八貫五二四文 本陣賄補助分

  内 銭一四貫五〇〇文        下宿賄補助分

    銭一三貫二〇〇文        本陣・問屋場人足雇銭

    銭二八貫五三二文        お供衆草履・わらじ代及炭薪代

    金三両 銭四二貫九六五文    御供衆酒肴代

  金二朱 銭二貫二四八文       日光例幣勅使小休賄銭

  金一両二朱 銭一五三貫五六七文   鷹匠休泊賄入用

  内 金一分二朱 銭 一〇貫一六七文 餌鳥・鷹部屋損料・仮橋架設材料代

    金二分   銭一四三貫二〇〇文 酒肴餅菓子代

    金一分   銭二〇〇文     野廻役年始伺代

  金一分銭一五貫四七三文  御用役人茶菓子代

  銭二一貫七六五文     関東取締出役・火附盗賊改役囚人休泊入用分

  金一七両二分       御用宿補助足銭

  金四二両  問屋・年寄・名主・組頭・百姓代役料

    金 七両 問屋二人 一人に付金三両二分宛

    金一四両 年寄四人  一人に付金三両二分宛

  内 金 七両 名主二人  〃    〃

    金 七両 組頭二人  〃    〃

    金 七両 百姓代二人 〃    〃

  金二六両一分銭四貫文  下役給金

    金 七両 帳付二人   一人に付金三両二分宛

    金一四両 馬差四人   〃    〃

    金五両一分 銭四貫文  小走二人 一人に付金二両二分二朱 銭二貫文宛

  銭一八三貫七五七文       用状持送り人足雇銭

  銭一八貫五五文         宿駕籠等損料代

  金二分銭一二貫六二四文     ちようちん代等

  金一両二分二朱 銭一貫五〇〇文 問屋場修理代

  金一両一分二朱 銭一五一貫七七二文 筆墨紙・炭薪・莚・泥台等一式入用分

  銭一六二貫一二六文       手伝人足食事代

  銭三六貫八四〇文        諸集会時の食事代

  金三分銭一貫九〇〇文      御用役人出迎入用

  金四両一分二朱 銭四貫五三二文 下役小遣・上野山内年始等諸入用分

  金一両二分           年貢金上納差添人出府入用

  金三両二分           地方定使給金

  金三朱銭一〇貫九〇〇文     地方筆墨紙代等

  銭八貫一〇〇文         地方御用向入用

  銭三貫三〇四文         村送病人等継送人足雇賃

  銭二貫五一六文         神札配人足・勧化送人足雇賃

   合 金四四二両三朱永九七文七分

となっており、収支勘定は差引五五両永八一文九分の赤字となっている。このなかに鷹匠休泊賄や、村送病人・勧化送人足このほか地方向入用とみられるものが含まれているが、その財政規模ならびにその財政内容は越ヶ谷宿と大きな差はなかったであろう。

 なお、粕壁宿収支のこのときの不足金はどうしたかというと、不足金五五両と永八一文余のうち金二二両二分を宿役人等一二軒を除いた御伝馬屋敷九〇軒に割合、一軒につき永二五〇文宛を徴収した。残り三二両二分と永八一文九分は、宿高一六九〇石に割合い、高一石に付永一九文二分七厘九毛宛の高割徴収でこれを調達している。また、粕壁宿は当時お定人馬は三五人三五疋であったので、五人五疋の囲人馬を除き、三〇人三〇疋が常備人馬であり、三〇人三〇疋の雇い人馬で日々の伝馬継立を行なっていた。