本陣

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宿駅の主要な任務には、伝馬の継立業務のほか、旅行者の休泊を目的とした施設を設けることがあった。旅人が宿泊をする旅宿を近世では旅籠(はたご)屋とか木賃宿などと称した。木賃宿とは、食事を供給しないで宿泊だけを専らにした家であるが、これは旅人が木賃を払い、携帯してきた食料を調理して食事をとるところから名付けられたものである。のちにはどの旅宿も食事を供給するのが一般的になった。

 これら旅籠屋のうち、大名や幕府の高官、あるいは寺社の門跡や公家などの貴人を休泊させる施設を本陣と称した。はじめは本陣も一定したものでなく、宿駅のなかでも富裕な者の家が本陣にあてられていたが、やがてそれが定宿となってその家を本陣と呼ぶようになった。各道中の宿駅によっては、本陣を二軒以上設けていた所もあったが、日光道中では一軒が普通であり、しかも世襲で本陣を勤める家が多かった。なかには本陣経営が行詰りしばしば本陣が交代された宿場もあるが、文化六年(一八〇九)現在の日光道中各宿の本陣を示すと、次頁の第20表の通りである。

第20表 文化6年日光道中各宿本陣
千住宿 秋葉市之助
草加宿 清水利兵衛
越ヶ谷宿 福井権右衛門
粕壁宿 見川安左衛門
杉戸宿 長瀬清兵衛
幸手宿 知久文左衛門
栗橋宿 池田由右衛門
中田宿 藤田孫右衛門
古河宿 吉沢与市
野木宿 熊沢七郎右衛門
間々田宿 青木八三郎
小山宿 小川彦右衛門
新田宿 青木半兵衛
小金井宿 大越忠右衛門
石橋宿 伊沢郡蔵
雀宮宿 小倉半右衛門
宇都宮宿 小平市右衛門

 このうち越ヶ谷宿の本陣は、はじめ越ヶ谷本町の会田八右衛門家が世襲でこれを勤めていた。初代の八右衛門は旧姓を三嶋式部大輔と称した戦国の落人で、天正年間(一五七三~九二)越ヶ谷に土着した。本姓三嶋氏のところ、会田出羽から会田の姓を与えられ、以来三嶋姓を会田姓に改めたという(「越ケ谷瓜の蔓」)。代々本陣のほか本町の名主・問屋を勤め、宿役三役を兼帯してきた家柄であったが、安永三年(一七七四)に没落し、越ヶ谷町を退転した。その後、越ヶ谷宿の本陣は、しばらく大沢町の真言宗寺院照光院が臨時にあてられていたが、安永九年十一月にいたり、それまで大沢町の脇本陣であった大松屋福井氏が正式に本陣を勤めることになった。この本陣家屋の規模構造は、天明三年(一七八三)一月大沢町大火による本陣類焼の際に、福井氏が幕府に届けた屋敷絵図によって明らかとなる。惣建坪は一四二坪で、その構造は次頁の図の通りである。

越谷宿本陣福井家玄関
福井家表間口(明治期)
大沢照光院

 これら本陣に休泊する者は、大名や貴人など特定な人びとであったが、この休泊者を本陣福井家の弘化五年(一八四八)の宿帳で見ると、次のような人びとが書き留められている。

  一月二十三日 日光門主        下山小休

  二月二十五日 小池坊権僧正     日光へ昼休

  三月二十六日 立花主膳正      江戸へ宿泊

  四月  一日 田村右京大夫     江戸へ昼休

  四月  二日 堀田摂津守         昼休

  四月  五日 上杉弾正大弼        宿泊

  四月  六日 丹羽左京大夫        宿泊

  四月 十一日 有馬備後守         昼休

  四月 十二日 日光門主名代        小休

  四月 十三日 日光祭礼奉行        宿泊

  四月 十八日 京都勅使万里小路      小休

  四月 十八日 日光名代 武田左京大夫   宿泊

  同    日 日光祭礼奉行内田豊後守 虎屋宿泊

  四月二十二日 仙台大将        下向宿泊

  四月二十三日 周幡少将        参詣宿泊

  四月二十六日 丹羽越前守       入府宿泊

  五月  七日 日光門主        登山小休

  五月二十一日 織田兵部少輔      参勤宿泊

  五月二十三日 日光門主        下山小休

  五月二十六日 溝口主膳正      江戸へ宿泊

  六月  八日 南部弥六郎         宿泊

  六月二十八日 生駒主殿          宿泊

  七月 十七日 南部弥六郎         宿泊

  七月 二十日 有馬備後守      稲葉屋昼休

  七月 二十日 南部甲斐守         宿泊

  七月二十九日 秋田安房守         宿泊

  九月  七日 日光門主          小休

  九月 十一日 鳥居丹波守         昼休

  九月 十三日 日光名代横瀬美濃守     小休

  同    日 日光祭礼 渡辺備中守 大黒屋小休

 十一月 二十日 鳥居丹波守         昼休

 十一月二十五日 松井周防守         宿泊