本陣がふさがっているときなどに、本陣の代りを勤める旅籠屋を脇本陣と称した。その規模や構造は本陣に次いで格式ある旅籠屋であり、多くは玄関や書院などを備えていた。脇本陣の数は、各宿によって異なり、なかには中山道大宮宿の一〇軒という所もあったが、越ヶ谷宿の脇本陣は二軒置かれていた。越ヶ谷町の会田八右衛門家が本陣を勤めていた頃は、越ヶ谷本町の四ッ目屋と、大沢町の大松屋が脇本陣を勤めたことがあったという。安永九年、大沢町の大松屋福井家が本陣を勤めるようになってからの脇本陣は、大沢町の虎屋次兵衛(山崎)、玉屋彦右衛門(深野)の両家が仰付けられた。