旅籠屋

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江戸時代、旅人の休泊を目的とした施設を旅籠屋と称し、本陣なども含まれたが、本陣・脇本陣はふつう旅籠屋とは呼ばない。本陣・脇本陣を除いた旅籠屋を大きくわけると、特殊な女を置いて旅人の接待をさせる食売旅籠(飯盛旅籠)屋と、そうでない平旅籠屋とがあった。そのほか宿泊する旅人の種類やその場所によって、商人宿・牛馬宿・香具宿・郷宿・参詣人宿とわけられるが、越ヶ谷宿の旅籠屋では、明確な区別は設けてはいなかったようである。

 旅籠屋の数は、その宿場や時代によって大きく異なるが、天保十四年(一八四二)の調査による「宿村大概帳」によると、東海道中桑名宿の一二〇軒、同じく岡崎宿の一一二軒が多い方である。日光道中では、小山宿の七四軒、草加宿の六七軒、千住宿の五五軒という順序であり、越ヶ谷宿は大が一一軒、中が二八軒、小が一三軒で合計五二軒である。このうち、公用旅行者の休泊を勤める旅籠屋を御用旅籠屋と称した。福井家文書「御用留」によると、宝暦年間(一七五一~六四)、越ヶ谷宿本陣会田八右衛門付の御用旅籠屋として、大沢町には、桔梗屋弥惣兵衛(多々良)、大松屋定右衛門(福井)、庄内屋久兵衛(深野)、柏屋安左衛門(大垣)、橘屋弥七(広瀬)、小和屋孫右衛門(吉田)、下妻屋権右衛門(松沢)、槌屋所左衛門(深野)、玉屋彦兵衛(深野)、虎屋次兵衛(山崎)、蔦屋茂左衛門(川上)、若松屋次郎八(疋野)、稲葉屋次左衛門(疋野)、富士屋次右衛門(内藤)、佐野屋伝左衛門(内藤)、大塚屋又兵衛(吉田)、江戸屋金平(荒井)、山屋立甫(深野)の一八軒があり、御用宿に準じるものとして富芳屋峯松など五軒を挙げている。ほかに木賃宿には鶴屋佐右衛門、香具宿には茗荷屋正右衛門などの名を載せ、総数四八軒にものぼるので、旅籠屋のほとんどが大沢町に集中していたことが知れる。このうち公用旅行者を宿泊させた御用旅籠屋には、宿場から相応の補助が与えられることになっていたが、安い公定旅籠賃で宿泊賄いを勤めねばならないので、のちにはいずれも御用旅籠をきらうようになった。このため旅籠屋のすべてが順番で御用旅籠を勤める強制措置がとられたこともあった。

諸国道中商人鑑(与野遅沢氏提供)