江戸幕府が伝馬宿を制度として設置させた目的の一つは、公用の旅行者に伝馬を提供させ、遅滞なく目的地に到着させることにあった。このため、一定数の人馬を宿場ごとに常備させていたが、最初は馬だけで、慶長六年(一六〇一)には東海道の各宿は三六疋ずつと定められた。こののち馬一〇〇疋と人足一〇〇人ずつが、東海道各宿の一日の提供人馬となった。この常備人馬を通称〝御定(おさだめ)人馬〟という。
日光・奥州道中では、はじめこの提供人馬の定数がなく、必要に応じて人馬を出させていたようであるが、御定人馬二五人二五疋と明確に定められたのは、越ヶ谷宿では明暦三年(一六五七)である。日光・奥州道中各宿の提供人馬は、江戸時代を通じ、二五人二五疋に変りはなかったが、越ヶ谷宿では元文元年(一七三六)当時には、五〇人五〇疋と定められていた。草加宿は「旧記」によると享保十三年(一七二八)、粕壁宿が訴訟文書によると同じく享保年間五〇人五〇疋に定められたという。ただし粕壁宿では宿と助郷対談のうえ、五〇人五〇疋のうち一五人一五疋が助郷の余荷分としていたので、実数は三五人三五疋であった。
また、御定人馬のうちには、〝囲(かこい)人馬〟といって、緊急の御用に使用する名目で確保しておく人馬があった。しかし、この囲人馬は事実上、宿場の負担軽減につながったので、各宿ではできるだけ多くの囲人馬を願った。
この囲人馬が許されるようになったのは、東海道では享保十年(一七二五)、宿々の疲弊救済策として、とくに三ヵ年の間五人五疋の囲人馬が許されたのがはじめであるといわれる。ついで宝暦八年(一七五八)には、東海道品川宿で御定人馬一〇〇人一〇〇疋のうち、三〇人二〇疋の囲人馬が許可されているので、日光道の囲人馬の制も享保年間以後一般化したと考えられる。因みに越ヶ谷宿では、享和二年現在御定人馬五〇人五〇疋のうち、囲人馬は一〇人一〇疋であった。
ともかくこの定められた数の御定人馬は、宿場でこれを提供する義務を負ったが、交通量が多く御定人馬の数で間に合わないときは、近在の村々に必要な数だけの人馬を割当てることができた。これを助郷という。なお、陸上の運輸機関としては、各道中宿駅とも、馬と人のほかは原則として使用せず、牛車や大八車などの車は一切許されなかった。これは宿駅人馬の維持をはかり宿場を保護するための配慮からであった。