公用通行者には、御朱印や御証文による無賃の人馬使用を許されるものと、幕府が公定した御定賃銭による人馬使用を許されるものとがあった。その他一般の人々の通行や荷物の運送は、それぞれの旅行者が馬士や人足と自由に契約してきめる相対(あいたい)賃銭によった。
このうち御朱印は、将軍が発行する無賃人馬使用の許可証であり、この人馬を〝御朱印人馬〟ともいった。朱印人馬の使用を許されたものは、享保八年(一七二三)の道中奉行の書上げによると、公家衆・門跡方・日光名代・諸国川々其外御普請等見分御用・宇治御茶御用・御鷹御用など二三種目に限定されていた(「駅肝録」)。この朱印による人馬数は、たとえば越ヶ谷宿天明五年(一七八五)の書上げによると、日光門主の三五人三五疋、日光門主添執当の八人五疋、日光門主附御番医師の八人五疋、日光名代の同じく八人五疋、日光進献馬の四人二疋などがあり、日光道中ではそのほとんどが日光宮関係者や同宮祭礼公用参拝者によって占められていた。
御証文は、老中や京都所司代、勘定奉行などが発行する無賃人馬使用の許可証である。たとえば老中証文で、この〝御証文人馬〟の使用を許されたのは、同じく享保八年の道中奉行書上げによると、国々へ御奉書御用物、三州よりなまこ、石州より蜜、和州より葛、諸国囚人并御仕置者、盗賊改方与力同心、遠国見分御用、日光御名代之節御樽・御箱など二六種目であり、勘定奉行の発行によるものは、〝日光より参候御巣鷹御用〟、〝所々川々御普請并見分御用〟など六種目であった。この御証文による通行者やその人馬数を、越ヶ谷宿天明五年の書上によってみると、例幣勅使の五〇人一〇疋、日光名代の四五人、会津蝋荷の一〇〇疋から二〇〇疋(五月から六月の間)、このほか日光御茶壺・日光進献御樽肴・奥州半田銀山御用・御鷹匠・奉行所同心・火附盗賊改方、代官などがあった。
これら御朱印や御証文は、目的別に発行されたが、その区分は明確ではなく、同一人が御朱印と御証文を同時に与えられることもあった。そして御朱印や御証文によってみとめられた数の人馬は前述のとおり無賃で使役することができる。ただしこの許可人馬の定数は名目だけで、実際は〝御馳走人馬〟、〝添人馬〟といわれて、定数人馬の何倍あるいは何十倍という無賃人馬を使役していたのは後述する。いずれにせよ幕府の布達などに伝馬とあるのは、普通御朱印や御証文の無賃人馬を指したもので、賃銭を払う駄賃馬と区別していた。このため近世の宿場や村々では無賃で使役される人馬を〝おてんま〟と呼び、その取扱いには特別な配慮を怠らなかった。