日光道中を往来する旅行者の交通量は、江戸時代初期から中期にかけてはつまびらかではないが、越ヶ谷宿天明五年(一七八五)の記録(福井家文書「往還諸御用留」)によって、当時の公用人馬数をみると次の通りである。ただしこの交通量は、相対賃銭による一般の旅びとや荷物を除いたものであり、越ヶ谷宿問屋場だけで一年間に取扱った公用人馬使用数である。
人足 三万九二六二人 馬 二万二一八五疋
内 御朱印御証文人足 一〇九四人 馬 七四〇疋
内 人足 六九一人 馬 七四〇疋 宿勤
人足 四〇三人 馬 九五疋 助郷勤
内 賃人足 一万三九三九人 賃銭 六〇二貫八二二文
内 賃馬 二万〇二八一疋 賃銭 一五〇一貫七三〇文
内 五四〇八人 宿勤 一万三三一三疋 宿勤
八四二九人 助郷勤 六八四五疋 助郷勤
一〇二人 加助郷勤 一二三疋 加助郷勤
内 添人馬 人足 一万七二六六人 馬 一一六四疋
内 四六九一人 四四一疋 宿勤
一万一五七〇人 六四〇疋 助郷勤
一〇〇五人 八三疋 加助郷勤
内 御状箱・御用物・送状・先触人足 六九六三人
内 四三四八人 宿勤 二六一五人 助郷勤
これによると御朱印・御証文による正式な無賃の使用人馬は、人足一〇九四人、馬七四〇疋である。これに対し添人馬と称し、御朱印・御証文の使用人馬が疲労したときの予備として付添う人馬が、馬一一六四疋であり、人足にいたっては使用許可人足の実に一六倍近くの一万七二六六人に及んでいる。これら添人馬はまったくの名目で、〝御馳走人馬〟ともよばれ、実際に使用される人馬でありもちろん無賃である。このほか御状箱などの継送りや先触人足の六九六三人分も無賃の取扱いであり、無賃人足の総数は二万五三二三人に及んでいる。
一方、賃人馬は幕府公定の御定賃銭によるものであり、その人足数は一万三九三九人で、この賃銭は六〇二貫八二二文である。賃馬は二万〇二八一疋でこの賃銭は一五〇一貫七三〇文であった。当時の御定賃銭は元賃銭の二割増であったので、人足一人あたり平均にすると銭四三文、馬は一疋あたり平均銭七四文である。この賃人馬の使用数を無賃人馬の使用数に比較すると、賃馬数は無賃馬数の約一〇倍、賃人足数は、無賃人足数の約二分一である。すなわち人足にくらべると、馬の無賃使用はきわめて少なかったことが知れる。
つぎに、これら公用人馬使用における宿・助郷の割合をみておこう。本来公用人馬は原則として宿人馬が負担することになっていたが、宿の御定人馬を使い切ったときは、助郷にこれを割当てることができた。越ヶ谷宿の御定人馬は、一日五〇人五〇疋、このうち当時一〇人一〇疋の囲人馬が許されていたので、四〇人四〇疋が実際の負担人馬である。これを前記天明五年の史料で検証すると、このときの宿の使用人足が一万五一四〇人あるので、これを一日あたりにすると四一人である。宿馬は一万四四五九疋であったので、これも一日あたり平均四〇疋であり、宿の御定人馬の定数通り使用されていたことになる。これに対し助郷の負担人馬は、無賃の人足が一万四〇八八人、賃人足が八四二九人で合計二万二五一七人、無賃の馬が七三五疋、賃馬が六八四五疋で合計七五八〇疋である。これを助郷勤高一万一八〇七石余に割当てると、一〇〇石につき人足一九二人余、馬六四疋余である。つまり高一〇石程度所持の標準的な農民の場合、この伝馬負担は馬と人足で平均三〇日に二日は伝馬勤めをしたことになる。
また加助郷は、定助郷村の人馬で間に合わないとき臨時に徴用されるものであり、このときは馬二〇六疋、人足一一〇七人を勤めている。当時の加助郷勤高は一万五九六九石余であったので、加助郷の負担は定助郷にくらべると、いちじるしく軽かったことが知れる。しかし加助郷の村々は、その多くが宿場から遠距離の場所にあったので、その伝馬の負担は困難であり、幕府も臨時の大通行に限ってこれを使用した。
さらに、この年間の公用人馬数を福井家文書「往還御用留」、寛政十二年(一八〇〇)の記録によってみると、同年の公用使用人馬数の内訳は、
人足 五万四五四六人 馬 三万一七〇二疋
宿勤 人足 一万九二〇〇人 馬 一万九〇五一疋
助郷勤 人足 二万八五四六人 馬 一万一〇〇〇疋
加助郷勤 人足 六八〇〇人 馬 一六五一疋
である。このときは宿人馬の使用数は一日当りにすると平均五二人、五二疋強になり、越ヶ谷宿御定人馬の定数をはるかに超過している。これはこの年に日光東照宮百五十回忌法要があり、このための大通行があったためであろう。助郷人馬の方も助郷勤高に割当てると、高一〇〇石に付平均人足で二四一人強、馬が九三疋強にあたる。つまり高一〇石所持の農民は、一〇日に一日のわりで人足か馬を出していた勘定になる。このほか当年は、加助郷村々の伝馬負担も多く、人足六八〇〇人、馬一六五一疋が徴用されている。これを加助郷高に割当てると、高一〇〇石に付人足四二人強、馬一〇疋強にあたる。さらに、翌享和元年(一八〇一)の人馬使用数をみると、
人足四万七〇九一人 馬 二万八八四二疋
内 宿勤 人足 一万七七五〇人 馬 一万七六六〇疋
助郷勤 人足 二万九三四一人 馬 一万一一八二疋
である。この年は加助郷の人馬は徴用されず、宿と助郷でそのほとんどの伝馬を負担した。このため宿・助郷とも日光東照宮百五十回忌法会があった寛政十二年度の使用人馬と大きな違いがない。このうち助郷勤めは高一〇〇石に付人足が二四八人強、馬が九四疋強である。宿人馬も平均一日四八人、四八疋を勤めている。
こうした公用人馬のうち、宿の御定人馬で間に合わなかったために徴用された助郷人馬の数を、月別にしてみると、次の通りである。
寛政十二年助郷勤
一月 人足 一四六七人 馬 四七三疋 日光門主還御 人足 九〇〇人 馬 二五〇疋正勤
二月 人足 一二一二人 馬 二九八疋
三月 人足 三三二五人 馬 七九〇疋
四月 人足 一万二八七八人 馬 三九二三疋 惣人馬日光門主往還共
内 人足 一〇五〇人 馬 一〇五〇疋 宿人馬
人足 五〇二八人 馬 一二二二疋 助郷人馬
人足 六八〇〇人 馬 一六五一疋 加助郷人馬
日光山百五十回忌法事中加助郷勤
閏四月 人足 一七六八人 馬 八三四疋
五月 人足 一七一九人 馬 一二三五疋
六月 人足 一〇一一人 馬 四〇一疋
七月 人足 八七八人 馬 三九〇疋
八月 人足 八一一人 馬 二七六疋
九月 人足 二六七七人 馬 五七一疋 日光門主往還 人足 一七〇〇人 馬 四五〇疋
十月 人足 一九二〇人 馬 一四八〇疋
十一月 人足 一九七〇人 馬 九八〇疋
十二月 人足 一二六〇人 馬 一一〇〇疋 日光門主登山 人足 九〇〇人 馬 二五〇疋
両助郷合計 人足 三万五三四六人 馬 一万二六五一疋
享和元年助郷勤
一月 人足 一七五八人 馬 四〇五疋 日光門主還御 人足 八〇〇人 馬 二五〇疋
二月 人足 一七五六人 馬 五二八疋
三・四月 人足 五九五〇人 馬 二九二七疋 日光門主登山 人足 九〇〇人 馬 三五〇疋
五月 人足 一七二二人 馬 九六一疋 日光門主還御 人足 八五〇人 馬 三〇〇疋
六月 人足 一三二四人 馬 七九三疋
七月 人足 一四八三人 馬 四〇八疋
八月 人足 一八二一人 馬 五七〇疋
九月 人足 二六七七人 馬 五七一疋 日光門主往還 人足 一七〇〇人 馬 五五〇疋
十・十一 十二月 人足 五七五〇人 馬 二二八九疋 日光門主登山 人足 八五〇人 馬 二八〇疋
助郷勤合計 人足 二万九三四一人 馬 一万一一八二疋
これによると、四~五月に公用旅行者が集中的に多かったのが知れるが、ことに日光門主の通行による人馬使用が伝馬負担の大きな比重を占めている。また助郷人馬勤は、寛政十二年度が人足三万五三四六人、馬一万二六五一疋、享和元年度が、人足二万九三四一人、馬一万一一八二疋である。このうち助郷が正勤した分、つまり助郷が実際に人馬を出して伝馬を勤めた数は、寛政十二年度が人足三五〇〇人と馬が九五〇疋であり、享和元年度が人足五〇〇四人と馬一七三〇疋である。したがってこれを差引すれば、寛政十二年度の人足三万一八四六人と馬一万一七〇一疋、享和元年度の人足二万四三三七人と馬九四五二疋が、実に金銭によって代替された雇人馬であった。