公用人馬使用者の取扱

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御朱印・御証文、あるいは御定賃銭による伝馬の通行者には、宿場の役人が粗相のないよう遠見人足をだしたりして送り迎えの準備を整えていたが、これら通行者の格式や慣例によって、その取扱いも多様であった。

 越ヶ谷宿天明五年(一七八五)の書上によると、まず日光道中第一の大事な通行者といわれる日光門主には、麻裃の礼装姿の問屋一人と、股引をつけた年寄二人、同じく股引の定夫二人の五人が宿場入口から宿はずれまで案内に立った。本陣も麻裃をつけ宿場の入口で行列を出迎え、日光門主に挨拶したうえ、本陣までこれを案内することになっていた。出発時には先宿本陣まで先払人足二人と、これに差添えて股引をつけた組頭が二人行列にしたがった。

 日光門主付添執当と御番医師に対しては、麻裃をつけた問屋が出迎えて挨拶し、脇本陣と年寄一人が袴をつけて御用伺いに付添った。出発時には先払人足を二人つけた。

 日光例幣勅使に対しては、股引姿の定夫二人が宿内の案内にたち、問屋場前から麻裃の問屋一人が本陣にまでこれを案内した。途中袴をつけた年寄二、三人が、御供衆に会釈するのが慣例である。出発時には先宿まで二人の先払人足をつけた。

 日光名代に対しては、問屋場前で麻裃をつけた問屋と、股引をはいた二人の年寄が御機嫌伺いをし、宿内の案内には定使二人が股引でこれを勤めた。出発にあたっては先宿まで二人の先払人足をつけた。

越ヶ谷一丁目付近

 日光祭礼奉行や日光御用諸大名には、問屋場前で麻裃をつけた問屋が御用伺いをしたが、宿内の案内や先払人足はつけない。

 日光門主名代法中が御朱印人馬で通行する際は、麻裃の問屋が問屋場前で会釈し、休泊の時には袴をつけた年寄が本陣に詰めて御用伺いをした。宿内の案内には定夫二人が股引で勤め、出発にあたっては先宿まで先払人足をつけた。

 老中と若年寄が通行のときは、麻裃の問屋が一人、股引の年寄と定使各二人が宿内の案内を勤めた。出発時には二人の先払人足と、二人の馬差が先宿までの御先案内を勤め、年寄二人がこれに付添って御用伺いを勤めた。

 寺社奉行が通行の際は、定夫二人が宿内の先払いにたち、問屋は麻裃で問屋場前にお迎えに出た。出発時には二人の先払人足をつけた。

 日光宮御手伝普請御用の諸大名通行には、問屋が問屋場前でこれを出迎え、御用伺いをした。このときは宿内の案内者や先払人足はださない。

 日光奉行は定例六月と十一月に交代となるが、そのときの通行には問屋が問屋場前でこれを迎えた。宿内の案内には定夫二人がこれにあたり、出発時には先宿まで先払人足を二人つけた。

 代官・日光目代・日光上野山内法中、ならびに日光神主の通行には、袴をつけた年寄が問屋場前で御機嫌伺いをした。休泊のときは宿内の案内や御用伺いを勤めた。

 諸大名の参勤交代の通行には、問屋役人に目録(御祝儀)が与えられたときに限り、問屋が麻裃をつけて御用伺いをした。

 例年正月・四月・九月の各十八日に日光山へ通行する早追御箱には、御状箱に年寄一人が付添い、先宿まで人足三人から五人がかりでこれを継送った。

 日光御神酒は、例年正月・四月・九月の十九日に日光から江戸に輸送されたが、この通行には股引の年寄がこれを出迎え、先宿まで二人の先払人足をつけた。

 日光御神宝諸道具類は、御証文による通行に限り、年寄が袴をつけてこれを迎え、先宿まで一人か二人の先払人足をつけた。宿泊の際は御神宝道具類を本陣かもしくは脇本陣に預け、不寝番をつけてこれを守らせた。

 日光山へ進献の御茶壺は、袴をつけた年寄がこれを出迎え、先宿まで先払人足一人をつけた。休泊の際はこの御茶壺を本陣か脇本陣に預け、同じく不寝番人をつけた。

 日光山への進献馬は、道中奉行発行による御証文であり、越ヶ谷・古河・宇都宮・鉢石の四宿に宿泊する慣例になっていた。越ヶ谷宿ではそのつど、進献馬を収容する廐の天井とその三方の囲は、新しい琉球表を張り青竹で押縁するなどの設備をほどこした。このときに準備して揃えられたものは、馬の胴縄用として一疋につき白木綿一反宛、新しい飼桶や裾盥、手桶・柄杓、それに新沓一疋につき八足分、口塩・焼酎・新藁などであった。また、進献馬の到着には、袴をつけた二人の年寄がこれを迎え、御裾の際は廐に詰めて酒肴のもてなしをした。出発時には先宿まで二人の先払人足をつけた。

 例年十一月、松前藩から献上の鷹一五居(おり)は、古くから老中発行による御証文によって通行した。このとき越ヶ谷宿では、鴨や雉子ならば一〇羽、雀なら一居につき一五羽宛の鷹の餌を用意しておく慣例になっていた。

 同じく老中の御証文による会津からの蝋荷物の通行には、先払人足一人、建札持一人、見本蝋持一人、才料二人、それに遠見人足を出した。宿泊の時には蝋荷を脇本陣が預かり番人足をつけた。

 奥州半田銀山御用通行は勘定奉行発行の御証文によるものである。これには年寄が出迎にたち、一人の先払人足をつけた。宿泊の際には宿役人宅で金荷を預かり不寝番人をつけた。

 房川渡中田関所四人衆の通行は、関東郡代伊奈氏の家老衆による役馬帳で、一人につき馬一疋宛の無賃馬を提供した。

 町奉行所同心、ならびに火附盗賊方与力・同心の通行は、道中奉行の御証文があればこれを無賃で継送った。しかも囚人護送の際の止宿には、宿料は無賃であった。

 以上が天明五年当時の、主な公用通行者に対する越ヶ谷宿の取扱いである。