参勤交代制度

592~593 / 1301ページ

参勤交代は、諸大名が一定の期間を江戸と国元に交互に在留する制度である。大名には、関ヶ原戦以前から徳川氏の家門あるいは家臣であった譜代と、関ヶ原戦以後徳川氏に臣従した外様との別がある。このうち外様大名は寛永十二年(一六三五)六月に江戸参勤が制度的に定められたが、寛永十九年五月には譜代大名も同じく江戸に参勤を命ぜられるようになった。譜代は主として政治への参与、外様は服従の意志を表示するためである。参勤の交代期月は、およそ外様大名が四月、譜代大名が六月であった。この参勤で通行する各道中の大名数は、文政四年(一八二一)の調査(「羽陽秋北水工録」)によると、総数二四五大名、外に定府といって江戸に定住する大名が二五名である。このうち東海道の通行大名が一四六名、中山道が二九名、奥州・日光道が四一名、水戸佐倉道が二三名、甲州道が三名、岩槻道が一名(岩槻藩)、練馬道が一名(川越藩)である。

 天明三年(一七八三)一月、越ヶ谷宿本陣が焼失の際、本陣福井氏が本陣利用の関係諸大名に本陣再建費の借用を申入れたが、このときの記録(大沢福井家文書「往還諸御用留」)によると、仙台伊達氏、秋田松平氏、会津松平氏、米沢上杉氏、庄内酒井氏、盛岡南部氏、二本松丹羽氏、白川松平氏、弘前津軽氏、新発田溝口氏、一ノ関田村氏、奥州湯長谷内藤氏、三春秋田氏、羽州長瀞米津氏、盛岡南部氏、新庄戸沢氏、米沢上杉氏、下野太田原大田原氏、羽州上ノ山松平氏、本庄六郷氏、羽州松山酒井氏、下野烏山大久保氏、蝦夷松前氏、下野黒羽大関氏、宇都宮戸田氏、山形秋元氏、羽州天童織田氏、福島板倉氏、壬生鳥居氏、羽州亀田岩城氏、喜連川喜連川氏、そのほか土井大炊頭、生駒監物、大岡鶴次郎、井上遠江守、石川若狭守、小笠原佐渡守、松平甲斐守の三八大名に借用を申し入れた。当時これらの大名が日光道を通行し、越ヶ谷宿本陣の利用者であったとみてよかろう。

 参勤交代時の大名行列は、はじめ必要以上に華美を競い、供揃いも多人数であったので、幕府はしばしば供人数の制限令を発した。たとえば、享保六年(一七二一)の供人数制限令(憲教類典)では、二〇万石以上の大名は馬上一五騎から二〇騎まで、足軽が百二、三十人、中間人足が二五〇人から三〇〇人まで、一〇万石の大名は、馬上一〇騎、足軽八〇人、中間人足百四、五十人、五万石の大名は馬上七騎、足軽六〇人、中間人足一〇〇人、一万石の大名は、馬上三、四騎、足軽二〇人、中間人足三〇人と定められていた。しかしこれらの規制はかならずしも守られていたわけではないといわれる。いずれにしろ参勤交代の旅行は、多勢の人ばかりでなく、大量の荷物も運ばれたので、大大名の宿泊には、既存の旅籠屋だけでは収容できず、一般の商家や農家にも分宿することが珍しくなかった。

参勤交代大名行列