宿泊料と宿賄

595~598 / 1301ページ

参勤交代の大名が宿泊した際、それぞれの下宿に本陣から上一人何文宛、下一人何文宛とお供衆を二通りか三通りに分け、その時の相場による宿泊料が通知された。弘化五年の松平陸奥守一行の宿泊料は、本陣で何人を賄ったか不明であるが、本陣には御祝儀金三両三分が目録で渡され、宿料は三両一分二朱と銀六匁五分であった。ただし風呂代として薪八把分銭四貫文、人足四人分銭八〇〇文、馬五疋の飼料代銭二貫六四文が別勘定で支払われた。この宿料は事前に本陣と取きめられ、覚書がとりかわされることになっている。

 同じく弘化五年の二本松城主丹羽左京大夫参勤の際の覚書(福井家文書「御休泊御用日記」)によると、

  一、銭二百七拾二文御上御一人様、一、銭二百四拾六文御次御一人様、一、銭二百四拾文御下御一人様

  右之通り御旅籠代御取極下され候処、相違御座なく候、以上

  一、白米一升に付 銭百四拾八文

  一、胡摩一升に付 銭二百八文

  一、塩一升に付  銭四十八文

  一、同油一升に付 銭一貫百文

  一、酢一升に付  銭百八拾文

  一、昆布一把に付 銭二百八文

  一、酒粕一升に付 銭百四十八文

  一、沓十足に付  銭三百文

  一、玉子一ッに付 銭二拾文

  一、馬一疋に付  銭四八拾文

  右之通り所相場を以て願上奉候通り相違御座無候、以上

   申正月十二日           福井権右衛門

   二本松様御内近藤清司様

とあり、時の所相場を示して相対で掛合のうえ宿料を定めている。しかし、一般的には藩財政の窮乏が深刻になった江戸時代中期以降は、各大名とも参勤交代その他の交通費にきびしい倹約がはかられ、相対宿料も守られない傾向にあった。たとえば大沢福井家文書文政四年の「御内々御尋に付諸家様風説申上」には、「平日御家中様方御止宿の節は、御相対御掛合の上相当の旅籠代御払い成され候へども、殿様御泊りの節は上下なく百五十文御払い成され候、これにより夫丸(足軽仲間か)上下日雇の者は、百三十六文払いに押付け、旅籠屋ども一同迷惑仕り候」という記事がみえる。

越谷宿本陣御休泊御用日記

 すなわち、家来衆の平常の旅行には、相対掛合いで定めた宿料を払って宿泊するが、殿様一行の止宿には家中、上下の差別なく一率一五〇文払いである。これを見ならい下々のものや日雇いの者一率に一三六文払いを押付け、旅籠屋一同迷惑しているという。これは会津藩主松平肥後守一行に対するものであるが、他の大名も大同小異であったろう。

 こうした事態に対処して、千住宿から宇都宮宿までの日光道中各宿本陣は、文化六年(一八〇九)に連印をもって、松平陸奥守をはじめ関係各大名に嘆願書を出した。それによると、近ごろ藩財政節約のため、小休を見合せて素通りする大名が多くなった。宿泊したときにも以前は宿料のほか多分のご祝儀があったが、このところご祝儀を出さないばかりか、関札代や炭・薪・風呂代も宿料に含める大名もいる。しかも近年は凶作続きで物価が高騰し、賄い費用が嵩んで、家宅の修復にも差支えている。このままでは本陣の経営がなりたたず、ご休泊に差支えてしまう。したがって通過宿駅での小休を復活させ、定額旅籠料のほかご祝儀金を出してもらいたい。そのほか関札代はもとより、炭・薪・風呂代の手当も増額してほしい、と嘆願している。これによっても本陣をはじめ、御用旅籠屋の経営は決して楽なものではなかったことが知れる。

 それでは、このような少額な宿料でどれほどの献立を用意したのであろうか。大沢本陣福井家の弘化五年の「御休泊御用日記」によって、内田豊後守一行の賄いをみてみよう。

 本陣に到着したときの夜食には、〝御平〟が、しいたけ・ゆば・長芋・竹の子・三ツ葉、〝御皿〟が、くわい・蓮根・かんぴょう・しいたけ・ひろゆば、〝御汁〟が、しいたけ・焼豆腐・青葉、〝香の物〟が、大根の味噌漬・茄子としようがの糀漬、〝御膳〟は米を持参したのでこれを焚いて差上げた。翌日の朝食は、御平が、あんかけ豆腐にしようが、御汁が大根の千六本、御皿は竹の子の丹煮、香の物が大根の味噌漬と糀漬であった。また、弁当には玉子焼にこぶたけのうまに、それによせ豆腐を持たせた。

 当時としてはけっして粗末な賄いではなかったであろう。また、お供衆の賄いは上・下に分けられた定食であったが、定食以外に酒肴を注文したときは、各人それぞれその分を別勘定で負担することになっている。それにしても、公用旅行者の休泊賄いは、旅籠屋にとって負担でこそあれ、決して恩恵のあるものではなかったと思われる。

本陣の関札