宿駅の伝馬を補充するために、近在の村々から人馬を徴用する制度を助郷制度という。
日光道中越ヶ谷宿では、明暦三年(一六五七)に、二五人二五疋の人馬を提供する義務が課せられたが、これは越ヶ谷宿で一日に勤める人馬の数である。御朱印・御証文による無賃で提供しなければならない人馬数は、それ程多くなかったが、賃銭をとる駄賃人馬を加えると、一日の定数を超えることが珍しくはなかった。その場合は、近隣の村々から人馬を集めて、不足した宿人馬を補充しなければならない。はじめ近隣の村々から補充したこの人馬を助馬と称し、必要に応じて臨時に徴用した。越ヶ谷宿ではそうした場合、助馬の徴用を当時足立郡赤山に設けられていた関東郡代役所に請願した。郡代役所ではこの請願にもとずいて村々に通達し、必要数の人馬を集めていたという(「大沢猫の爪」)。
その後、このような村々からの徴用人馬が制度化され、宿駅ごとに人馬を提供しなければならない村々が道中奉行から指定されたが、この指定された村々を助郷というようになった。助郷がいつから始まったかについては、諸説があってつまびらかでないが、東海道中では助馬村の制度は万治元年(一六五八)以前のことであるとしている。いずれにせよ元禄七年(一六九四)に至り、正規に東海道と中山道に宿駅付属の助郷村が指定され、各宿ごとに助郷帳が渡されている。日光道中ではその二年後の元禄九年六月に助郷候補にのぼった村々の調査が実施され、同年九月に助郷村の元帳である助郷帳が各宿に交付された。