西方村の加助郷勤め

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西方村は享保十一年(一七二六)越ヶ谷宿助郷を免除されたが、その後まったく助郷を勤めなかったわけではない。大通行のあるたびに越ヶ谷宿や水戸街道新宿(にいじゅく)町などに加助郷を勤めたことは、史料に知れるだけでも第25表の通りである(「伝馬天」「伝馬地」)。西方村ではそのたびに村方の困窮を理由にして加助郷の除外を訴願したが、一度加助郷を命ぜられると、臨時あるいは当分の助郷勤めであるからと説得され、容易には免除されないのが普通であった。こうして西方村が勤めた多くの加助郷のなかから、主なものを記述すると次の通りである。

第25表 西方村の加助郷勤め
年月 勤宿 事由
享保13年4月 越ヶ谷宿 日光社参
享保14年 新宿町 水戸殿小金鷹狩
寛保元年2月  〃  〃
寛保元年12月  〃  〃
延享4年6月 大名国替通行
寛延元年5月 江戸 朝鮮人来朝
寛延元年11月 新宿町
寛延3年3月 越ヶ谷宿
宝暦3年5月 日光門主通行
宝暦13年5月 日光宮修復通行
明和2年4月 日光法会
安永5年4月 古河宿 日光社参
安永7年7月 越ヶ谷宿 日光普請通行
安永8年 日光普請通行
安永9年9月 日光門主通行
安永9年5月 新宿町 伊達殿通行
天明元年4月 越ヶ谷宿 尾張殿日光参詣
天明4年6月
寛政3年5月 新宿町 水戸殿通行
寛政10年5月 越ヶ谷宿 日光宮遷宮
寛政12年3月 日光法会
享和2年9月 水難に付
文化2年11月 新宿町 水戸殿尊骸通行
文化4年6月 越ヶ谷宿 蝦夷地御用
文化6年3月 新宿町
文化11年5月 越ヶ谷宿 日光宮遷宮
文化12年4月 日光法会
文化13年9月 新宿町 水戸殿尊骸通行
文政2年9月 越ヶ谷宿 日光宮遷宮

 (1)将軍日光社参 安永五年(一七七六)四月、一〇代将軍徳川家治の日光社参が行なわれた。このときは関東八ヵ国の村々から加助郷を含めて動員された人馬は、総数人足が九五五八人、馬が九七三五疋であった。この割当ては、高一〇〇〇石におよそ人足七人、馬七疋宛の徴用であったという。これら動員された人馬は区割別に、江戸詰・岩槻詰・古河詰・宇都宮詰・日光詰とに分けられた。

 このうち江戸詰の人馬は人足が一五六〇人、馬が一五二〇疋であり、武蔵・相模・上総・安房四ヵ国のうちの村数七二四ヵ村がこれに割当られた。また岩槻詰の人馬は、人足が三二〇〇人、馬が三六〇〇疋であり、武蔵・上総・下総・安房四ヵ国のうち村数一三九二ヵ村、古河詰の人馬は、人足が三一六三人、馬が三〇五八疋であり、下総・上総・安房・武蔵・上野五ヵ国のうちの村数一一二二ヵ村、宇都宮詰の人馬は、人足が三一八八人、馬が三〇五四疋であり、下総・下野・常陸・上総四ヵ国のうち村数九九〇ヵ村、日光詰の人馬は、人足が一六三五人、馬が一五五七疋であり、上野・下野・常陸三ヵ国のうち村数五七〇ヵ村が、これに割当てられていた。

 この日光社参伝馬の加助郷を命ぜられた西方村は、同じく加助郷の指定をうけた八条村・大杉村・大枝村・古ヶ場村とともに、古河宿の後詰に割当られ、古河から岩槻までの通し伝馬の継立てを勤めた。この五ヵ村の人馬割当は人足が三二人、馬が二一疋であり、上記五ヵ村はこの人馬の世話役を西方村名主平内に依頼した。平内はこの三二人二一疋を、印幡郡佐倉町の太右衛門と、埼玉郡所久喜村の太市との両名に請負わせた。このときの請負人馬賃は、人足一二人八分余、馬八疋五分余の割当をうけた村高一四二七石余の八条村が、世話料その他の伝馬諸入用を含め、金三三両三分と永一六一文であった。したがって、高三五〇九石余となる五ヵ村の総出費は、約八〇両ほどであったと推算される。これに対し、幕府からは、五ヵ村の割当て三二人二一疋分の扶持米として、米二石九斗六升分の代金二両三分と銭六三二文が支給されただけであったので、この伝馬費用はほとんどが村々の負担で賄われたことが知れる。

 (2)日光法会 寛政十二年(一八〇〇)は三代将軍家光の一五〇年忌にあたり、日光法会が盛大に行なわれた。このときの大通行には、宿と定助郷の人馬では不足なので、越ヶ谷宿でも道中奉行に願いあげ、第26表の村々を加助郷に指定した。すなわち武蔵国埼玉郡のうち瓦曾根村ほか一二ヵ村、武蔵国葛飾郡のうち鍋小路村ほか三五ヵ村、武蔵国足立郡のうち新兵衛新田ほか二ヵ村、下総国葛飾郡今上村ほか五ヵ村の計五八ヵ村であった。これら加助郷村からは高一〇〇石につき人足四二人五分、馬一〇疋三厘宛の人馬が動員された。

日光大猷院廟(明治期)
第26表 寛政12年日光法会 越ヶ谷宿加助郷村
武蔵国埼玉郡 武蔵国葛飾郡
村高 村名 村高 村名
高408 瓦曾根村 高650 平沼村
〃1,523 西方村 〃443 保村
〃1,026 東方村 〃321 木売村
〃683 見田方村 〃390 高富村
〃368 四条村 〃574 高久村
〃43 別府村 〃213 中野村
〃449 干疋村 〃204 木売新田
〃207 中島村 〃109 富新田
〃699 増森村 〃126 二ツ沼村
〃1,280 増林村 〃291 中島村
〃250 大竹村 〃55 小松川村
〃455 小曾川村 〃383 上笹塚村
〃168 長島村 〃155 金野谷村
武蔵国足立郡 〃220 中井村
〃283 関新田
高227 新兵衛新田 〃244 吉谷村
〃38 久左衛門新田 〃311 加藤村
〃150 藤八新田 〃185 半割村
下総国葛飾郡 〃71 鹿見塚村
〃101 皿沼村
高415 今上村 〃160 飯島村
〃92 桜台村 〃167 土場村
〃557 山崎村 〃911 三輪野江村
〃375 花井村 〃130 前間村
〃361 堤根村 〃153 小谷堀村
〃188 横内村 〃101 後谷村
武蔵国葛飾郡 〃580 中曾根村
〃272 道庭村
高115 鍋小路村 〃454 半田村
〃200 須賀村 〃452 蓮沼村
〃268 川野村
〃171 川富村
〃300 関村
〃577 吉川村

 この日光法会の通行は同年四月二日から同二十八日まで続いたが、この間の人馬継立総数は人足一万二八七八人、馬三九二三疋に及んだ。このうち宿人馬は一〇五〇人、一〇五〇疋を勤め、残りは定助郷・加助郷で人足一万一八二八人、馬二八七一疋を勤めた。ほかに人足三六人と馬四八二疋が流人馬(使用しなかった詰人馬)となったが、継立人馬のほとんどが助郷人馬に依存していたことがわかる。また継立人馬のうち、賃銭払いの総額は、人足が銭五九貫四五〇文、馬が銭一〇貫八〇〇文であり、その多くは無賃で継送っていたことになる。西方村ではこのとき、人足五一七人、馬五七疋の加助郷を勤めた。

 (3)日光神忌法会 文化十二年(一八一五)は東照宮二〇〇年忌にあたり、かねてから施工されていた東照宮の修復も完成、盛大な日光法会が営まれることになった。このときの道中継立て人馬は、原則として加助郷の徴用を避け、宿と定助郷の人馬で賄うことが指示された。ただし差支えが生じたときは、例外的に加助郷の人馬を雇うことを許された。その代償とし、宿・助郷お救いのためと称し、神忌御用中はとくに御定賃銭の五倍の割増がつけられた。したがって越ヶ谷宿からの伝馬賃銭は、

  粕壁宿へ人足二五八文  草加宿へ人足一七四文

      本馬五三〇文      本馬三四七文

      軽尻三四三文      軽尻二二八文

となり、出人馬にとっては駄賃稼ぎのよい機会であった。

日光東照宮(明治期)

 これに先立つ一三年前の享和二年(一八〇二)、西方村は北川崎・大吉両村からの助郷の差村をうけ争論を続けたが、道中奉行所の裁許によって村高一五三〇石余のうち三一三石が越ヶ谷宿代助郷(後述)に指定された。したがって西方村は、村高のうち一部は越ヶ谷宿の助郷を勤めることになっていたのである。ところが、越ヶ谷宿では、当年の神忌御用通行に、加助郷人馬の徴用が認められないことになったので、西方村に対して、その残り高分についても定助郷に組入れ勤めをするよう申入れた。西方村では、後の慣例になっては困るとこれを拒否したが、諸般の事情から止むを得ない場合は、三一三石にかかる助郷割当のほか、一〇〇人五〇疋までの加助郷には応じる、と妥協した。そして西方村では神忌御用中の人馬勤めに対し、細部にわたって村内の申し合せを行なった。この人馬勤方議定によると、人足一人につき粕壁・草加いずれの継立てによらず一率二七二文の手当てを支給する。同一人が折返し勤め(往復勤務)をした分は御定賃銭の五倍賃銭を支払う。流れ人足や半人足勤めには一率一七二文を支給する。馬一疋については、本馬・軽尻の別、さらに草加・粕壁の継立ての別なく一率六〇〇文を支給、折返し勤めの分は御定賃銭の五倍増賃銭、流れのときは四〇〇文の手当、このほか、人馬宿の補助銭として人足一人につき二四文、馬一疋につき四八文を手当する。出人馬の世話役として付添う才料の手当は、一日三〇〇文とする。ただし割当てられた人馬に対し、本人が出勤せず雇人や召仕を差出したときは、人馬の別なくその者に一日一三六文を与え、折返し勤めは五倍賃銭の半額を支給、流れ人馬には小遣銭として若干の銭を与える、としている。これは人馬の割当てをうけた者が正勤(雇いでなく実際に出勤すること)することを前提に、助郷勤めを他人に依存する身勝手を防止するためにとられた措置であったという。

 この神忌御用通行は、三月二十四日から四月三十日まで続いた。はじめ、宿人馬など伝馬に手馴れた者が折返し勤めをして稼いだので、伝馬に馴れない助郷人馬の多くが流れ人馬になった。しかし、のちには伝馬取締方出役人の取計い方がよく、手順よく人馬の割ふりが指示されたので、平均に継立てが行なわれるようになった。そのうえ、余分の人馬割当てもなかったので、今回は助郷出人馬が予想外に少なく済んだという。

 西方村ではこの間、人足二三〇人、馬五二疋を勤めたが、伝馬費用の総額は銭一五四貫二六二文になった。これに対し、人馬賃銭の請取分が五四貫五六一文、折返し賃銭分が一四貫七八三文、合計収入は銭八四貫九一四文であったので、差引銭六九貫三四八文の支出となった。この支出分は高割によって村びとから徴収することになっている。出人馬勤めをしたものでも、一日一回の継立てしかできなかった者は、食事代その他でむしろ赤字になったという。五倍増賃銭勘定であってもこの通りであり、助郷がいかに割の合わない課役であったかの一端が知れよう。

 (4)水戸殿遺骸通行…翌文化十三年九月、江戸で死去した水戸宰相の遺骸を、国元水戸に葬送するため、水戸街道を通行することになった。この大通行に備え、水戸街道新宿(にいじゅく)町(現東京都葛飾区新宿)では、道中奉行に加助郷人馬の動員を要請しこれが許された。このうち八条領では、西方村をはじめ七ヵ村が加助郷に指定されたが、この割当は高一〇〇石につき人足二人八分、馬九分余の割当であった。したがって村高の多少により、西方村が人足二五人八分と馬八疋五分、南川崎村が人足一二人五分と馬四疋一分、木曾根村が人足一九人七分と馬六疋五分、二丁目村が人足七人八分と馬二疋九分、鶴ヶ曾根村が人足二三人八分と馬七疋九分、八条村が人足四〇人七分と馬一三疋五分、伊草村が人足一六人八分と馬五疋六分という人馬の割当であった。西方村では村高のうち三一三石が越ヶ谷宿助郷に組入れられていたので、その残り高に新宿町からの加助郷が課せられたのである。

 この加助郷に対し、西方・八条・伊草・鶴ヶ曾根の四ヵ村は、遠路の出人馬であることから、割当の人馬を新宿町の善兵衛と甚左衛門に、人足一人につき銭二二四文、馬一疋につき四四八文の契約でこれを請負わせた。つまり西方村を例にとると、新宿町に加助郷を命ぜられたため、銭九貫六九〇文の余分な伝馬負担を負わなければならなかったわけである。

現在の新宿町の問屋場付近