代助郷

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宿駅付属の定助郷のなかで、困窮等の理由で助郷の免除を訴願し、一定の期間休役を許され、あるいは免除されることもあった。このときはかならず代りの村を名差しで願い出ることになっており、これを〝助郷差村〟といった。助郷村が助郷の免除あるいは休役を認められたとき、この差村された村がその代りを勤めなければならなかった。これを〝代助郷〟という。

 越ヶ谷宿助郷では、享和元年(一八〇一)に越ヶ谷宿助郷の川崎村と向畑村が西方村を差村して争い、翌享和二年に道中奉行所の裁許があった。裁許の内容は、差村した両村の困窮が認められ両村の助郷勤高のうち半高、三一三石が西方村で勤めることにされている。すなわち西方村は、村高一五三〇石余のうち三一三石が、川崎村と向畑村の代りに越ヶ谷宿定助郷に組入れられたわけである。その後文政五年(一八二二)こんどは西方村が、助郷を免かれていた小曾川村や増森村・長島村などを差村して助郷免除を願い、結局小曾川・増森両村が代助郷として西方村三一三石の助郷勤めを肩代りすることになった。

 このほか助郷免除を願い、これが認められても差村のうちに適当な代助郷村がないときや、特別な理由があるときは、助郷村全体でその分を余荷(よない)(助合)することもあった。たとえば砂原村は安永九年(一七八〇)に、白鳥放飼場に指定されたため、御鷹御用が頻繁である八月から三月までの八ヵ月間、砂原村助郷勤高六七八石のうち二二六石分が免除され、その代りとして惣助郷村の余荷勤めが申渡されている。また、天保二年(一八三一)、小曾川村と増森村が困窮を理由に助郷免除を願って許されたが、その代りとして、両村の助郷勤高三一三石分は惣助郷村の余荷で勤めることが申渡されていた。