増助郷

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助郷にはこのほか、〝増助郷〟と呼ばれるものがあったが、この増助郷の性格は明瞭ではない。特別な大通行の場合における伝馬の増勤や、一定期間、定助郷勤高の増加措置に対して、漠然とこの呼称が用いられたものであろう。たとえば、正徳五年(一七一五)東照宮百年忌の日光法会に際し、幕府は日光道中各宿に増助郷の通達を出した。すなわち、「正徳五未三月越ヶ谷宿え増助郷被仰付定助郷村々に而写置事」(「伝馬天」)には、「御定の宿人馬は勿論、其余は相応に割合差出させ、其上にも不足の分此度申付け候当分の助郷より差出し候」とある。つまり各宿御定人馬を出したうえ、さらにその余は相応に定助郷村と割合って人馬を出し、そのうえ不足の分は当分助郷を申しつけた村々(加助郷)から人馬を差出させよと指示している。その後、寛延三年(一七五〇)の大猷院(三代将軍家光)一〇〇年忌の日光法会、明和二年(一七六五)の東照宮一五〇年忌日光法会にも増助郷の通達が出されているが、いずれも特別な大通行のときである。

 また、天保二年(一八三一)二月、定助郷の疲弊と交通量の増大が考慮され、越ヶ谷宿では第27表の村々が一〇ヵ年季の増助郷を申渡されたので、この村々の助郷勤高はそのまま越ヶ谷宿助郷高に加えられたことになる。したがってこのような場合にも増助郷の呼称が用いられたようである。

第27表 天保2年越ヶ谷宿増助郷村
村名 村高 助郷勤高
大吉村 382 98
船渡村 831 197
伊原村 590 145
東方村 1,029 259
見田方村 683 173
麦塚村 500 125
恩間村 502 126
大竹村 280 70