元和七年の改修

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武蔵東部の低地開発と、江戸の水害防止をはかるため、かねて利根川の東遷を志向してきた徳川氏は、文禄三年の利根川改修に続き、元和七年(一六二一)関東代官頭伊奈忠治をして、利根川の第二次改修を施工させた。

 すなわち利根川が浅間川筋に曲流する佐波村の地点から渡良瀬川筋の栗橋にいたる二里余の間を直道に開鑿し、利根川を栗橋地先の渡良瀬川に直接合流させた。この新水路を新川通りという。同時に栗橋の北方から常陸国水海村までの二里余にわたる水路があわせて疏鑿された。この水路の幅ははじめ七間であり、この新水路を赤堀川という。赤堀川は渡良瀬川と毛野川の分水嶺を掘鑿した水路であり、掘った土が赤土であったことから名付けられたといわれる。

 これら新水路疏鑿の目的は、利根川の流れが赤堀川を流下して常陸川筋に導流されることをねらったものであったが、常陸川筋の改修整備が施工されなかったため失敗におわった。すなわち栗橋で渡良瀬川と合流する新川通り流下の利根川は、赤堀川の先で滞留したため五霞村を乱流し、山王から江川にかけて幾多の湖沼を生じさせる結果をまねいた。しかも渡良瀬川と利根川の流量をうけた渡良瀬川筋の権現堂川は、この流量を流下させることができず、このため渡良瀬川の主流は流れを変え、五霞村を貫流して庄内川に流下した。

 つまり新川通りと赤堀川の第一次開発は、常陸川筋の利根川導流に成功しなかったのみか、中世来の古い歴史をもった五霞村周辺地域の荒廃を招いたようである。

元和7年改修図