寛永十八年の改修

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このため寛永十八年(一六四一)に、伊奈忠治は再度利根川治水の一連の改修を施工した。その一つは栗橋と川妻の間から権現堂村に至る渡良瀬川の河道を拡張改修し、元和七年の利根川改修の失敗によって五霞村を貫流していた渡良瀬川を、再び権現堂川筋に導いた。栗橋から上宇和田村の庄内川に至る間の渡良瀬川を通称権現堂川とよび、その下流を庄内川、その下流を太日川とよんだ。このうち権現堂川に関しては、権現堂村から上吉羽村にかけての屈曲部分が水勢激しく、すでに天正四年(一五七六)、当所に長さ五〇〇間、高さ一丈八尺の堅固な堤防が築かれていたという(『新編武蔵風土記稿』)。

 伊奈忠治はまた、利根川と渡良瀬川の主流をまともにうける庄内川地域の水害防止のため、渡良瀬川と利根川の合水量を二分する計画をたて、すでに寛永十二年から伊奈氏の家臣小島庄右衛門をして、下総国関宿から宝珠花を経て葛飾郡金杉にいたる台地五里余にわたる水路を開鑿させていた。

寛永18年改修図

 すなわち寛永十八年、権現堂川の改修によって権現堂川が利根・渡良瀬両川の主流となるや、権現堂川の下流上宇和田村地内から五霞村の江川と関宿町の中間に逆川を掘鑿し、これを小島庄右衛門開発による関宿・金杉間の新水路につなげた。これにより権現堂川の水量は、上宇和田村から逆川により、新川(後の江戸川)に分流されることになった。

 このほか寛永十八年の利根川改修の主なものに佐泊渠がある。これは元和七年の利根川改修の失敗による赤堀川筋の乱流を、五霞村の小手指で遮断し、川妻村の東から新たに川幅三〇間の水路を掘鑿して常陸国前林村の沼池に流れを導くためのものであり、この水路を佐泊渠という。同時に利根川の流量を佐泊渠を通して常陸川筋に分流させようと試みられたものであったが、この佐泊渠は地理的にも無理があって失敗した。このため利根・渡良瀬両川の流れは権現堂川に集中したので、権現堂川の堤防はさらに補強を続けなければならなかった。

現権堂堤の河川改修碑