利根川の東遷

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元和七年に開鑿された新川通りと赤堀川は、寛永十二年(寛永二年説もある)にも川幅が切拡げられたが、さらに承応三年(一六五四)に川幅が一七間切拡げられ、つごう川幅二七間、深さ二丈九尺にたっした。同時に赤堀川の下流境町から木崎村までの七里から八里にわたる常陸川筋の浚渫工事が施工され、ここに赤堀川がはじめて開通した。

 これより利根川の主流は、新川通り―赤堀川―常陸川―小貝川―鬼怒川筋を通り、下総国銚子から大平洋に流下する現在の流路をとるようになった。幕府がかねてから念願していた利根川の東遷がここにはじめて実現したわけである。そして以前太日川となって東京湾にそそいでいた渡良瀬川は、この赤堀川によって流路が分断されたため、渡良瀬川は利根川の一支流という形になった。なお赤堀川はその後文化六年(一八〇九)にも川幅四〇間が拡張させられており、利根・渡良瀬両川の流量の多くは赤堀川を通って銚子に流されるようになった。

承応3年改修図