寛文五年の改修

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寛永十八年に開通した新川(新利根川、後の江戸川)は、利根川の水を栗橋から権現堂川を通し、上宇和田村から逆川を経て流下させていたが、寛文五年(一六六五)、当時の関宿城主板倉重常が、逆川を拡張するとともに赤堀川にこれを疏通させた。つまり利根川の水は権現堂川を迂廻せず、直接関宿から新川を流下するようになったので、新川は利根川の一支流に変じた訳である。

 こうして新川が利根川と直通された結果、それまで権現堂川から逆川を経由して新川に入った通船は、関宿から直ちに新川を下るようになり、江戸との舟運が急速に進展した。このため関宿から金杉間の新川と、それにつながる太日川は以来〝江戸川〟とよばれるようになった。

 以上の経過を辿った利根川の東遷は、武蔵東部低湿地の農地開発を目途にした治水策であったのはまぎれもないが、なによりも江戸を水害から守るための施工であった。このため五霞村地域から葛飾郡庄内地域は、利根川改修の過程で、一時は水の被害をまともにうけて荒廃した。元栗橋の新栗橋への移転等もその一つである。いわば江戸の水害防止の犠牲に供されたということもいえよう。