綾瀬川の改修

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綾瀬川は荒川の支流であるが、かつては埼玉・足立両郡の境界を画した荒川筋の本流であった時期もあった。寛永六年、荒川の入間川への瀬替により綾瀬川も同じく水量の少ない故道に変じた。その後綾瀬川は徳川幕府によりしばしば流路の改修が施工された。曲折がはげしいために生じる川水の滞留を除くためである。

 西方村の「旧記壱」によると、まず寛永年間、八条領蒲生村地先から同領西袋までの曲流が直道に疎通されるとともに、渕江領浮塚村から葛西領小菅村までの新綾瀬川が新たに疏鑿された。したがって綾瀬川の流路はこのとき、二筋に分流された。すなわち浮塚村地先から久左衛門新田筋を曲流して利根川と合流したのち亀有から元隅田川を経て隅田川に入る元の流路と、浮塚村から小菅村を経て元隅田川に入る新水路の二筋になったわけである。

 ついで延宝八年(一六八〇)、小菅村から直接隅田村に至る新川が疏通され、久左衛門新田筋の旧流路が浮塚村地先で締切られた。これにより綾瀬川は一筋の流路となったが、同時に綾瀬川流域の排水幹川として用水の堰止めが幕府から一切禁止された。このため江戸との舟運の便がひらけたので、各所に河岸場が開設され、さかんに物資輸送のための舟運に利用された。続いて享保十二年(一七二七)には、八条領西袋村から渕江領浮塚村に至るS字型の曲流が直道に疏通され、ほぼ現在の流路に定まった。

綾瀬川の改修
越巻地先の綾瀬川