中川の改修

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中川とは、現在は松伏の古利根堰下の古利根川下流と、瓦曾根堰下の元荒川下流、あるいは元荒川と古利根川の合流地点吉川の下流を中川と称している。江戸時代は八条領垳村地先から葛西領亀有村、小岩村を経て江戸湾(東京湾)に流下する流路を中川と称し、そのはじめは利根川の一支流である細流であった。

 吉田東伍編『大日本地名辞書』によると、かつての利根川の流路は、葛西領猿ヶ俣村で西流し、垳村地先で浮塚村から曲流してきた綾瀬川をあわせ、亀有村から元隅田川を経て隅田川に入った。その後利根川は、猿ヶ俣地先で三派に分流し、一派は猿ヶ俣から東流して小合・金町を経て太日川(江戸川)に、一派は西流して垳村地先から亀有を経て元隅田川の旧流に、一派は中川となって亀有から南流し、直接東京湾にそそいだ。その後寛永年間(一六二四~四四)利根川の分流三派のうち、猿ヶ俣で元隅田川と中川筋の西派が締切られ、以後の利根川は猿ヶ俣から小合を経て太日川に流下される一筋の流れになったという。

 ところが太日川の洪水時には、この西派を締切った猿ヶ俣の堤防が、太日川からの逆流をまともにうける衝激地点となり、江戸洪水の危険をはらんだ箇所となった。宝永元年(一七〇四)七月、関東一円を襲った大風雨は、各地に甚大な被害をもたらせた。とくにこの大風雨で水量を増した江戸川(太日川)は、金町から小合の古利根川流路を逆流し、猿ヶ俣の堤防を決潰した。このため、葛西領は勿論、江戸下町一帯も大洪水になった。『武江年表』によると、「宝永元年八月、洪水猿ヶ俣堤押崩し、田畑在家過半破壊して死亡人数を知らず、本所、深川、山谷、下谷辺屋宇をひたす」とある。幕府はこのため、翌宝永二年、猿ヶ俣から東流して江戸川にそそいでいた古利根川の流路を、金町の江戸川筋と、猿ヶ俣の古利根川筋で締切り、古利根川の流路を西に開いて中川に導流した。同時にこの古利根川の水を東西葛西領の用水にして使用するため、亀有の新宿でこれを堰留め溜井を設けた。これを亀有溜井という。

 この亀有溜井の造成により、葛西領地域の農業用水は確保されたが、逆に溜井上流地域の排水不良をきたし、農耕上大きな障害になった。西方村「旧記壱」によると、亀有溜井上流地域村々の耕地は常に湛水状態が続き、稲の収穫時には家毎に田舟を使って刈揚げる始末であり、年々水腐の憂いがたえなかったとある。

 このため幕府は、享保十四年(一七二九)、井沢弥惣兵衛をして再度中川の改修を施工させた。弥惣兵衛は、中川通りを切広げ、新宿堰を取払って溜井をつぶすとともに、久左衛門新田筋の旧綾瀬川河道から落合う葛西用水の流末を六ツ木村地先で締切り、古利根川を一筋にした中川排水幹川を成立させた。

中川の改修

 なお亀有溜井取払い後の葛西領地域の用水は、東葛西領が松伏溜井から、西葛西領が瓦曾根溜井から、それぞれ用水路を経て取水されることになった。