関宿と金杉間の江戸川は、前述のように寛永十八年(一六四一)の開通になるものである。また金杉以南の江戸川は、かつて太日川とよばれ、庄内川下流の名称であった。利根川東遷によって庄内領の排水川となった庄内古川は、これまで金杉村地先で江戸川に合流していたが、出水のたびごと江戸川の逆流に襲われ、庄内領や松伏領あるいは二郷半領にいたる地域の水害を招いた。このため享保十四年(一七二九)、井沢弥惣兵衛の施工により、金杉と深井新田までの二里余にわたる間に、川幅八〇間の新水路が疏鑿され旧水路と付替えられた。この工事は金三〇万両の経費がついやされたといわれ、江戸川の旧河道を塞ぐために施工された金杉村の築堤工事はことに大規模なものであったという。
なお三輪野江村加藤まで延長された庄内古川の流路付替工事も、このときの一連の施工であった。このほか享保十六年には、葛西領樋口村から小向村にいたる流路の掘替工事が行なわれており、当所を分水川とよんでいたようである(江戸川改修絵図)。