元荒川の改修

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元荒川の呼称は寛永六年(一六二九)、荒川本流の和田吉野川への瀬替以後のことであり、古荒川ともよばれた。当地域における元荒川の主な改修は、越ヶ谷天嶽寺前と荻島村地内の直道改修が挙げられる。このうち天嶽寺前の改修は、越ヶ谷御殿地から花田村を迂廻して小林村にいたる彎曲の流れを直道に開鑿して流路を変えたものである。施工年代はつまびらかではないが、おそらく寛永六年、荒川瀬替による水不足を補うため中島用水が開発されたとき、それにともなって施工された一連の工事とみられる。

 すなわち庄内領中島村から庄内川(のち江戸川から取水)の水を導流した中島用水は、増林堰(現古利根堰)によって鷺後用水路(逆川)に送られ、大沢町の地蔵橋で元荒川に合流する。その際、瓦曾根溜井までの通水の便がはかられ、天嶽寺前が直道に疏通されたものであろう。したがって、増林堰と鷺後用水路の開発も、同年代の一連の工事とみてよいであろう。

花田元荒川改修図

 また袋山村を迂廻した元荒川の荻島村地内の直道疏通は宝永三年(一七〇六)の施工による。すでに延宝八年(一六八〇)十二月、大竹村地先から曲折した元荒川の沿村、袋山・恩間・大竹・上間久里・下間久里の五ヵ村は、五代将軍徳川綱吉が各地に派遣した巡見使のうち、当地域の巡察にあたった役人に対し、

(1)元荒川が曲流しているので水の流れが悪く耕地に湛水する。しかも先年瓦曾根溜井に石堰が設けられたので、いよいよ川水が高くなり、耕作地が水に没したところもある。

(2)荻島村耕地のうちに、袋山村の悪水落しがあったが、荻島村が土屋相模守の領分になってから、袋山村の悪水落し口を塞がれた。このため袋山村は悪水を流すところがなく、悪水が耕地に滞溜している。

(3)元荒川の曲流部のなかでも、とくに袋山村は湛水被害が大きい。以前、代官に新川の掘替を願いでたところ、検使として新井孫八殿、川野十郎右衛門殿が、新井堀の替地の見分にきている。

という趣旨の訴状を巡見使に提出し、善処方を要望している(越谷市史(三)五一二頁)。

 これによると、袋山村地域の耕地浸水の要因は、その下流瓦曾根溜井による影響が大きかったようである。袋山村はじめ各村は、その後も新川掘替えの訴願をくりかえしていたとみられるが、延宝八年から二十五年後の宝永三年にいたり、ようやく元荒川の曲流部大竹村地先から荻島村の一部を切って大林村に抜ける新川が疏鑿されることになった。この年正月、代官比企長左衛門と今井九右衛門が川筋普請の奉行に任ぜられ、武蔵のうち、星川・元荒川・下利根川通り村々の、川筋改修の訴願場所を一括して見分した。この見分結果にもとづき、必要とみられた場所の改修が同年施工されたが、袋山村迂廻の曲流が直道に開鑿されたのも、そのなかの一つであった。

 なお新川掘替にあたり、荻島村の一部が新川によって分断されたが、この元荒川によって分離された荻島地域を人々は〆切り部落と称した。また新川掘替ののち、古川となった地は、多くの問題をかかえながら新田に開発されたが、これが年貢地として村高に入れられるのは、寛延三年(一七五〇)の新田検地を待たなければならなかった。

 このほか当地域の元荒川筋では、須賀・末田溜井に石堰が設置され、水量をはかる石の標識杭が建てられたのが、寛延二年のことである。

大竹地先の古川跡