享保期以前の河川掛り

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幕府の河川支配については、根岸完水の『利根川治水考』に、「其初メハ代官ヲ以之ニ当ラシメタルガ、享保十己巳ヨリ十六年辛亥マデハ四川奉行ヲ置キ、同十七年壬子ヨリ勘定奉行五人ヲシテ川々ヲ分担セシメ掛切ヲ命ジタリ」とある。これによると享保十年(一七二五)以前の河川掛りは特定代官の専任であったと理解される。利根川の東遷、荒川の西遷、あるいは用水路の開発や溜井の開発など、近世初期の大規模な普請には、ほぼ関東代官頭伊奈氏がこれに当っていたが、川除堤の修復、河川の浚渫、圦樋の伏込、河川の部分的な改修など、比較的規模の小さい普請には、そのつど勘定所の役人や各代官が任ぜられてこれに当っていたようである。

 「吏徴別録」によれば、元禄十四年(一七〇一)、幕府は初めて禄高五〇俵三人扶持の堤方役人六人を置き、その下役に給金六両二人扶持の役人一二名を設けたという。これら専任の堤方役人が、河川普請にどのような役割を果したか、またその職制はどのようなものであったかはつまびらかでない。こころみに、元禄期からの河川普請担当役人を当地域の史料でみると次のごとくである。

 元禄十三年、幕府は水害に難儀する川付村々の普請訴願に応じ、元荒川・星川・古利根川の改修普請を実施した。このときの川筋見分役は竹村惣左衛門と窪田長五郎の両名が担当した。このうち窪田長五郎は、『寛政重修諸家譜』によると、元禄七年十一月に幕府勘定方役人から代官に転じていたので、当時代官の職にあった。竹村惣左衛門は、元禄七年に勘定方役人、宝永元年(一七〇四)に勘定方組頭、享保元年(一七一六)には勘定吟味役の経歴をもつ役人であり、当時は勘定方の役人であった。しかしこのときの実際の普請奉行は、西方村「旧記壱」によると、当時浪人身分の田中薗右衛門が担当した。田中薗右衛門はこの先、幕府から武蔵東部諸河川の検使役を命ぜられ、元荒川・古利根川・星川の各川通り三〇里にわたって実地調査を行なった。薗右衛門はこの調査にもとづき、諸川のなかで土砂の埋まった場所、曲流によって湛水の甚だしい場所などを、つぶさに幕府へ報告し、その改修浚渫の必要を上申した。幕府はこの具申をうけ、改めて竹村・窪田の両人に再検使役を命じた。このため田中薗右衛門は一応任務を解かれ、浪人となったが、竹村惣左衛門に再び招かれ、武蔵東部諸川の普請奉行を担当した。田中薗右衛門は『寛政重修諸家譜』には記されていないので、おそらく幕臣ではなく臨時の雇われ役人であったとみられる。

 また宝永三年(一七〇六)に、元荒川・古利根川・星川通りの河川普請が実施され、袋山村迂廻の元荒川が直道に疏鑿されたが、このときの普請奉行は、当時代官であった比企長左衛門と今井九右衛門であった。ただし今井九右衛門は途中病気になり、比企長左衛門がもっぱらこれを担当した。なお袋山村細沼家文書によると、宝永五年八月、元荒川改修によって生じた袋山村廻り古川敷の処置につき、普請役人が恩間・袋山・荻島・上間久里・下間久里の各村役人を、恩間村の宿舎に集合させたが、この廻文の差出人は栗原喜太夫ほか二名である。おそらく比企長左衛門の家臣であろう。比企長左衛門はその後正徳五年(一七一五)七月に病没し、その跡役として、正徳五年五月に大御番組から代官に転じた会田伊右衛門が、同年十月から河川掛りを担当することになった。その廻文によると「元荒川・星川・下利根川并に用水悪水、比企長左衛門跡会田伊右衛門仰付らる。これにより御勘定所証文相廻し候に付、継々順達申べし」とある。ちなみに、この河川掛りに任ぜられた代官会田伊右衛門は、越ヶ谷会田出羽家の別家である旗本会田家であり、その始祖から三代目にあたる。名を資刑と称し、武州埼玉郡のうちで五〇〇石の知行を与えられている。したがって享保期以前における諸河川、ならびに用悪水路の担当掛りは、主に特定の代官の所管にあったことが知れるが、このほか適宜に普請巧者を民間から登用したこともあったとみられる。

三野宮地先の元荒川