四川奉行

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『利根川治水考』によると、幕府は享保十年(一七二五)に四川奉行を設け、専属の河川掛りを任命したとある。西方村「旧記壱」などの、当地域の史料によると、「羽生領上川俣の利根川通りから東葛西領の海岸まで、堤川除普請、圦樋伏替え、ならびに用水の懸引は、四川奉行の管掌になったので、当所の溜井や用悪水堀は四川奉行に引渡した」という趣旨の触書が、享保十三年十月に幕府から通達されている。この通達には四川奉行として、かわらけ町小梅店居住の嶋田平助、本所六間堀の清水久之丞、牛込念仏坂の蓬田左太夫の三名の名が記されている。また享保十四年の触書には、

   武蔵国埼玉郡 八条領村数三拾五ヶ村

   同国 同郡  淵江領村数拾六ヶ村

   同国 足立郡 谷古田領五ヶ村

  右は武蔵埼玉郡同国足立郡村々、川又葛西用水組合御料私領御普請并に用水懸引共、只今迄水方役の者相勤候場所奉行として、去々年嶋田平助、清水久之丞、鈴(木脱)忠左衛門、蓬田左太夫仰付られ候間、当酉年より人足并に百姓役出すべき品々差図次第之を出し急度相勤むべく候、右四人并に大川通り御普請役のもの下役共々御用に付村々へ罷越候節、村役人馬之を出すべく候、此書付村次に相廻し、留り村より右四人の内へ相返すべき者也

   享保十四酉年三月    弥惣印(以下連印略)

とある。すなわち葛西用水路の普請や用水かけ引は、今まで水方役の者が勤めていたが、去々年、つまり享保十二年から嶋田平助ほか三名の者に奉行を申しつけた。したがって本年からは八条領、淵江領、谷古田領の葛西用水組合村々も、人足や材料を奉行の差図次第出してこれを勤めること、また奉行ならびに大川通り普請役人が御用で廻村したときは、村々で人馬をだすこととある。この触書によると、四川奉行は前記三名のほか鈴(木)忠左衛門の名もみえるので、四川奉行はこの四名で構成されていたとみられる。『寛政重修諸家譜』によると、四川奉行前記四名のうち、嶋田平助は享保五年三月から勘定方役人となり、武州荒川通りの普請掛りを担当している。鈴木忠左衛門は、享保元年に勘定方役人となり、同年八月から国々洪水の地の見使役を勤めている。清水久之丞は、宝永六年四月に勘定方役人となり、享保九年二月から諸国川除普請掛りを勤めている。蓬田左太夫は不明であるが、四川はそれぞれ勘定方の役人で、普請掛り担当であったことが知れる。だが、勘定所の普請掛りや水方掛り、あるいは代官による河川掛りなどの制度的な分掌はつまびらかではない。いずれにせよ享保十六年、四川奉行の一人清水久之丞が、幸手領用水普請の奉行を担当した際、部下の不正の責を負って逼塞を命ぜられたが、翌享保十七年には四川奉行は廃止されている。