享保期以降の河川掛り

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享保十七年(一七三二)二月、幕府は河川の普請所や用悪水の水方掛りとともに、その河川掛りを勘定奉行ら五名に分担させた。その担当河川と担当者は、江戸川・古利根川・綾瀬川が駒木根肥後守、鬼怒川・小貝川・新利根川が筧幡磨守、下利根川・渡良瀬川が松波筑後守、荒川・和田吉野川・元荒川・星川が松田佐渡守、上利根川・烏川・神流川が細田丹波守である。このうち古利根川等を担当した勘定奉行駒木根肥後守の触書を、西方村「触書中」によってみると、「古利根川・江戸川・綾瀬川其外葛西用水御普請所、并に用水悪水圦樋等水方共に、今度我等懸りに候条、向後伊奈半左衛門并に御普請役の者見分吟味せしむべく候間、其意を得るべき候」と達し、請御用の際の注意一〇ヵ条が示された。この一〇ヵ条の通達の大要は、

(1)普請御用で廻村の役人に贈賄しないこと。

(2)役人の宿泊には、御定めの木銭を受取り、一汁一菜のほか馳走しないこと。

(3)役人が自分用に求めた品を安売しないこと。

(4)役人の送迎に使用する人馬は、五里以内は百姓役(村の負担)であるが、それ以上の里程は賃銭を受取ること。

(5)御普請願いは、一ヵ所限り目論見帳に絵図を添えて吟味を願うこと。

(6)御普請の際は役人の差図にしたがい、竹木や人足を差支えなく調達すること。

(7)御普請所の目論見帳や、御入用積り証文には、一ヵ所宛に伊奈半左衛門の奥判をもって渡すので、村々では出来形帳と照合してから竹木代・人足賃・扶持米などの代金を受取ること。

(8)河川満水の際は、昼夜の別なく、村中総出で堤防の破損を防止すること。

(9)出水のときは最寄りの役人に早速注進すること。

(10)百姓役の組合普請所でも、入用金の割合等には、出来形帳に伊奈半左衛門の奥判をもって渡すので、村々立会のうえ出金すること。

となっている。これによると、古利根川や葛西用水等の普請掛りは勘定奉行駒木根肥後守の兼職であるが、この普請所の実地調査は伊奈半左衛門や普請役人が担当するとある。しかも普請の際の目論見帳や出来形帳には、伊奈半左衛門役所による判鑑を必要とするとあるので、普請御用の取扱いは、当時伊奈氏の所管であったようである。

 その後元文二年(一七三七)十二月、勘定奉行らによる諸河川の掛り担当者が改めて定められたが、これは勘定奉行らの更迭によって当然な処置であったろう。このときは、荒川・小貝川・鬼怒川・新利根川が松浦佐渡守、下利根川・渡良瀬川が神谷志摩守、上利根川・烏川・神流川が河野豊前守、江戸川・古利根川・綾瀬川が神尾五郎三郎の担当となっている。おそらくこれら勘定奉行の下に普請役人が直属となり、河川の普請その他を実際に取扱ったものであろう。

 寛保二年(一七四二)十二月、関東大洪水で被害をうけた堤防の修築工事がひろく実施されたが、このとき武州埼玉郡間口村堤の普請を担当したのは普請役下役青木銀蔵である。青木銀蔵は前もって触当た普請人足のほか、さらに多数の普請人足の動員を強要した。これに怒った村人は一同して青木銀蔵を打擲し、砂をかけるなどして狼藉を働いた。これが奉行所の知るところとなり、関係者のなかから獄門三人、遠島六人、追放一人の処刑者をだし、名主・組頭は役職をとりあげのうえ欠所(田畑屋敷の没収)惣百姓一同お咎の申渡しをうけた。青木銀蔵も百姓から打擲されながら、これに抵抗しなかったので、扶持をとりあげられている。

 また同年十一月、武州大里郡八ッ林堤普請の際にも、普請役人と出人足の間で事件をおこしている。すなわち普請人足のうち、同郡相上村と早山村の出人足が勤務怠慢であるとして、普請役人から賃銭を減額すると申渡された。これに怒った両村の才領(監督)はじめ人足一同が騒ぎだし、賃銭渡し所の箱燈灯を破るなどの乱暴をし、増銭を強要して無理に増銭を出させた。これがまた奉行所の知るところとなり、乱暴を働いた才領二人が重追放、両村の名主・組頭は役職をとりあげのうえ、欠所、惣百姓もお咎めの仕置をうけている。

 延享三年(一七四六)六月、関東筋堤川除普請・用水差引、ならびに藻刈の実施は、西方村「触書中」によると、「向後書面の通り、最寄御代官年番掛りにて取計候」とあるように、最寄代官の年番掛りに定められている。このときは、上州と野州の利根川と渡良瀬川が伊奈半左衛門・野呂猪右衛門・田中八兵衛、羽生領と忍領の利根川通りが永田小左衛門、騎西領の用水方が伊奈半左衛門・舟橋安右衛門・永田小左衛門、見沼・高沼・笠原沼・黒沼の代用水方が伊奈半左衛門・舟橋安右衛門、葛西領用水方が伊奈半左衛門・舟橋安右衛門・戸田忠兵衛の六代官による年番掛りと定められている。このほか普請役元〆荻野藤八郎ほか一名、普請役荒堀五兵衛ほか七名、普請下役宮嶋又治郎ほか二名、計一三名の者が同時に定掛り普請役に任命された。そして河川や用水路の普請に際しては、年番にあたった代官の手代が定掛り普請役に差添えられて普請にあたることに定められていた。

 その後天明八年(一七八八)には、江戸川・荒川の御普請定掛りとして代官飯塚常之丞が任命されているし、宝暦九年(一七五九)には綾瀬川の浚切上普請ならびに藻刈は、代官辻源五郎・岩佐直右衛門・伊奈半左衛門の年番定掛りとなっているなど、その時その場所で特定の代官が任ぜられており、河川関係の支配系統やその職掌には定まったものがなかったようである。しかしこれら河川関係の業務は、天保期以降(一八三〇~)、次第に代官の職務から離れ、定掛り普請役人に移管されていったようである。たとえば当地域の諸普請における目論見帳や出来形帳には、伊奈半左衛門ら代官の奥印が付されていたのが、天保期以降普請役人の奥印に変っており、村々の普請願いも普請役宛に出されている。

普清出来形帳

 なお見沼代用水の開発をはじめ、中川、元荒川そのほか享保期の河川改修に活躍した井沢弥惣兵衛に少しふれておこう。弥惣兵衛は名を為永といい、もと紀伊家の家臣である。享保八年七月に勘定方役人に採用となり、蔵米二〇〇俵の幕臣に登用された。同十年十一月、勘定吟味役に昇進して三〇〇俵の加増をうけ、関東諸河川の普請を担当した。享保十六年、甲信二国の諸河川普請に出向を命ぜられ、同二十年美濃郡代を兼職している。つまり紀州流といわれる普請巧者の井沢氏であったが、幕府職制のうえでの専門的な河川掛りではなかったのである。