近世以前の農業用水

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科学技術庁資源局資料「中川流域沼跡図」によると、寛永年間以前の武蔵東部低地域は、太日川・利根川・荒川・綾瀬川・入間川をはさんで、大小無数の沼地が散在していた。越谷地域ならびに周辺地域の主な沼を数えても、松伏沼・二郷半沼・潮止沼・増林沼・新方沼・大相模沼・出羽沼・新和沼・金右衛門沼・伝右衛門沼(いずれも仮称)等が散在していたという。各河川の自然堤防に村落を形成して生活を営んでいた当時の人びとは、これら沼や池からの取水によって水田農耕を展開していたとみられるが、それは常に河川の氾濫や干魃に直面している不安定な自然条件のもとにあったと想定される。

中川流域沼跡図<br>(1590~1640年)

 徳川氏によって進められた利根川の東遷、荒川の西遷により、武蔵東部低地域の諸河川は、利根川・荒川・渡良瀬川の本流から切離される結果となり、その水位は低下するにいたった。これは従来河川流域に無数に散在した沼沢地の干拓が可能になったことを意味するものであり、事実慶長期から寛永期にかけて武蔵東部低地の新田開発は急速な促進をみせた。しかし農耕には、沼や池の干拓にともなって、これに代わる〝代用水〟が求められなければならない。幕府はこれに対応し、逐次大規模な用水路を開発したが、この用水路の開発にはまず水位の低くなった河川の水を堰止めて水位を高めなければならなかった。このために設けられたのが〝溜井〟である。