越谷地域の溜井には、元荒川筋に瓦曾根溜井と末田・須賀溜井がある。設置年代は両溜井とも慶長年間(一五九六~一六一五)の開発であるといわれる。荒川(元荒川)は寛永六年(一六二九)の瀬替えであるので、当時の元荒川は荒川の本流であったが、すでに慶長九年、伊奈忠次によって荒川の上流に奈良堰と麻生堰が設けられ溜井が造成されていた。しかも同年烏川を堰止めた大規模な仁手堰が設けられたので、慶長年間といわれる瓦曾根堰や末田須賀堰の造成は、当時の技術でも可能であったとみられる。
このうち瓦曾根溜井は、西方村「旧記壱」によると、先述のごとく慶長年間の成立であるとあり、ここから引水された用水は、はじめ、八条領地域の農業灌漑に用いられた八条用水と、瓦曾根・西方・登戸・蒲生各村の農業灌漑に用いられた四ヵ村用水の両用水であったという。ついで東・西葛西領の灌漑に用いられる葛西用水が、瓦曾根溜井から引水されたが、この葛西用水の成立事情は次のごとくである。
慶長十八年(一六一三)八条領地域の排水路として、西方村から八条領垳村地先の綾瀬川まで新たに井堀が開鑿された。おそらくこの井堀は、当時八条領地域に散在していた沼池の干拓に用いられたものであろう。葛西用水縁にあたる伊原村の慶長十八年の年貢割付状には、この年田畑合せて五反八畝二三歩の井堀潰地永引が記されており、この地積は伊原村にかかる井堀八〇間の長さで計ると、堀幅二間、左右の土手数二間、合せて四間分の潰地に相当するといわれる。この井堀は、その後元和九年(一六二三)にも一間半ほど堀幅が切拡げられ、寛永六年には四間ほど拡張されて八間堀となったが、この年瓦曾根溜井に圦樋が伏込まれて用水路に用いられた。すなわち伊原村寛永六年の「井堀ひろけ間数」の書上げによると、この年田畑合せて六反一畝二〇歩の井堀潰地が記されており、用水圦元西方村の「永引田畑潰地年限」の書上げによると、寛永六年には田一町五畝二歩の〝かさい井堀潰地〟が記されており、瓦曾根溜井に二間幅の圦樋が敷設されたとある。これによって瓦曾根溜井から引水された用水は、寛永六年現在、四ヵ村用水・八条用水・葛西用水の三用水であったことが知れる。
また末田・須賀溜井は、「大沢町古馬筥」によると、瓦曾根溜井と同じく慶長年間の開発であるとされ、慶長年間から溜井潰地の代米として、岩槻領主から年々一石余の米が溜井地元須賀村に与えられていたとある。この溜井からは、新方領村々の農業灌漑に用いられる須賀用水と、荻島や出羽地域の農業灌漑に用いられる末田大用水が引水された。しかし寛永六年の荒川瀬替えによって元荒川の流量は減少し、水量は末田・須賀溜井に貯溜されるのがようやくであり、その下流瓦曾根溜井までは届かなかったのが事実であろう。