寛永六年の荒川瀬替えによって水量の減った綾瀬川は、流域村々の農業用水取入れのため各所に堰が設けられた。このため綾瀬川の下流谷古田領や淵江領の用水が不足したので、寛永十三年(一六三六)、瓦曾根溜井から取水した堀幅九尺の四ヵ村用水路が三尺ほど切拡げられた。この切拡げ分の水量は、蒲生村一里山地先の綾瀬川に落されて堰止められ、谷古田・淵江各領の用水に用いられた(西方村「旧記壱」)。
延宝八年(一六八〇)、小菅村から隅田村に至る綾瀬川の新川が疏通され、淵江領久左衛門新田筋の綾瀬川分流が浮塚村で締切られると、綾瀬川の用水堰止めは禁止された。このため蒲生村一里山地先の綾瀬川を堰止めて用水を取入れていた谷古田・淵江両領のうち、谷古田領村々はこの年、新たに瓦曾根溜井に杁樋を敷設して用水路を開鑿した。これを谷古田用水という。一方淵江領村々は葛西用水を貯溜した久左衛門新田溜井から用水を取水することになった。したがって延宝八年当時、瓦曾根溜井から取水される用水・上水は、四ヵ村用水・谷古田用水・葛西用水・本所上水・八条用水の五つであり、溜井下流地域村々の重要な溜井となっていた。