宝永元年(一七〇四)七月の関東大出水は、東・西葛西領域をはじめ、江戸下町一帯の大洪水を招いた。と同時に松伏溜井・瓦曾根溜井等の水源である中島用水の元圦とその用水路も埋没させて通水不能の事態を招いた。このため中島用水を取水した各領村々は、中島用水路の模様替えを幕府に願い、その結果羽生領上川俣から新たに用水路が開鑿された。この間の経緯を、西方村「旧記壱」によってみよう。
庄内領中島用水元圦の箇所は、もともと川床の低い所であり、逆に八条領や葛西領は地高であるので、用水の通水は普通でも逆水になりがちである。しかも宝永元年の出水で中島用水の元圦や用水路が復旧不能なまでに埋没し、用水の通水は絶えてしまった。わずかに万治三年(一六六〇)開発になる幸手領用水の余水がたよりであるが、水量が少ないので中島用水を使用してきた各領は天水地同様となり、旱損の被害がたえない。用水不足に難儀する各領村々は、幕府に中島用水路の模様替えをしばしば訴願したが、この願書が受理されたのが宝永五年であった。ところが用水路模様替えに必要とする経費が多額であることを理由に、幕府は容易に工事に着手しなかった。しかし享保四年(一七一九)にいたり、中島用水路の代替地として羽生領上川俣が選ばれた。すなち上川俣の利根川に圦樋が伏込まれ、同村地内から簑沢村地内まで千間余の水路が新開された。この水路は本川俣からの幸手領用水と簑沢村地先で合流する。そして川口溜井と琵琶溜井にそれぞれ一艘ずつの圦樋が増設されて通水の便がはかられ、それからは用水の通りがよくなった。
これによると、上川俣の用水路の開発は、機能を失なった中島用水のかわりに、村民が訴願のうえ施工されたものであるという。以来この用水は幸手用水を含め葛西大用水とよばれた。以上の事情によって開発された上川俣用水路の施工経費の総額は不明であるが、幕府はこのとき関係各領からも負担金を徴収している。享保四年七月、勘定奉行伊勢伊勢守役所から発せられた川俣用水堀普請上納金督促の触書によると、関係各領の上納金割当額はつぎのごとくであった。
一金百七拾弐両壱分 銀六匁五分八厘 西葛西領
一金弐百七拾五両壱分 銀拾三匁壱分 東葛西領
一金五拾三両 銀六匁六分六厘 淵江領
一金三百壱両三分 銀八匁七分七厘 八条領
一金百拾六両弐分 銀八匁壱分五厘 新方領
一金三百七両弐分 銀九匁三分四厘 二郷半領
川俣用水堀御普請御入用金、来る廿日を切て取立差出し候様に仰触られ候、之により盆後には早々手代共差出し取立させ候間、用水組御料私領共に、村々残らず此旨相触置申さるべく候、油断これある間敷候、以上
(享保四年)亥七月七日 (伊奈家家臣)会田七左衛門
こうして葛西大用水が成立したが、庄内領中島村から幸手領八丁目村までの中島用水故道は、享保十四年にすべて新田に再開発された。また関係各領の上納金を組入れて竣功をみた上川俣の用水路も、地形上適当な場所ではなかったとみられ、元圦前には常に川洲が積り用水の取入れに支障があったという。幕府はしばしば圦前の浚渫をこころみたが効果がなく、ついに宝暦年間(一七五一~六四)上川俣用水路を廃止した。その後この用水故道は、天明八年(一七八八)に、組合各領相談のうえ、すべて新田に再開発されている。したがって葛西大用水の取水は、もっぱら万治三年成立の本川俣の元圦から取入れられたのである。