足立郡見沼は、寛永年間(一六二四~四四)伊奈忠治により、芝川を八丁堤で締切って造成された農業用水のための溜井である。享保十三年(一七二八)、八代将軍吉宗は新田開発政策の一環として、勘定吟味役井沢弥惣兵衛に命じ、一二〇〇町歩にわたる見沼の溜井を干拓した。
これにともない見沼の代用水を下中条の利根川から引いたが、その延長里程は二三里に及んでいる。下中条の利根川を起点とした代用水は、荒木村で星川と合流し、大山村上大崎で星川と分かれ、平野村を経て上瓦葺村から東縁・西縁の二派となって見沼新田に用水を供給した。この代用水は見沼新田ばかりでなく、用水縁村々の耕地にも用いられ、その灌漑面積は三〇〇余村、一万二六〇〇余町歩に及んだという。なお見沼用水路は、享保十六年に芝川との間に運河式の通船堀が設けられ、見沼用水―芝川―荒川―隅田川と、江戸に通じる舟運が開かれ、物資の輸送に大きな役割りを果した。