御手伝普請

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水害等の復旧工事や、大規模な河川改修などには、幕府が諸大名にその普請の経費を負担させて施工することがあった。これを御手伝普請という。当地域で御手伝普請が行なわれた早い例では、寛文四年(一六六四)の瓦曾根溜井内石堰敷設の普請に、仙台藩松平陸奥守が御手伝いを命ぜられている。

 また寛保二年(一七四二)の関東大洪水の復旧工事には、数多くの諸大名が御手伝を命ぜられたが、このうち古利根川・江戸川・庄内古川の復旧工事を担当したのが肥後藩細川越中守である。細川越中守のこのときの御手伝金は、総額金六万九九四〇両といわれ、当地域では金七〇両をかけた越巻村周辺の綾瀬川堤の修復、ならびに古利根川通り増林堰枠の修復が施工されている。その後宝暦元年(一七五一)には、西方村の水防諸式置場が松平陸奥守の御手伝によって設置されたし、明和四年(一七六七)の水害時にも松平陸奥守の御手伝により、綾瀬川堤一〇五〇間の修復と、増林堰の修復が施工された。

古利根堰

 ついで天明六年(一七八六)の関東大水害には、関東諸河川の復旧に仙台藩はじめ二〇藩の諸大名が御手伝を命ぜられている。当地域の綾瀬川は、松平大膳大夫と菊川監物がこれを担当した。越巻村の「産社祭礼帳」によると、これら御手伝普請を村人は御救普請と称し、水害などで困窮した農民の救済事業でもあった。

 すなわち天明七年の御手伝普請の記事には「御普請正月六日より始る。御普請金御内借として金拾六両弐分受取り、段々御普請出来方により金子受取り、春中の飢を相助り申し候」とあり、御手伝普請は水害時の農民の助成の一つであったことを記している。しかし寛政年間以降は、大きな災害時にも、諸大名による御手伝普請が行なわれず、農民は〝お助け貰い〟と称し、その日の食糧を求めて他村に流出する者がいたという。幕末期における幕府の威信失墜と藩の財政破綻が御手伝普請のみられなくなった要因であろう。