自普請

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材料や人足すべて村々の負担で施工される諸普請を自普請と称した。自普請所は一村あるいは数村の必要によって設けられる用悪水路や、圦樋・橋梁などその数は多い。また藻刈や川浚いなども村々の義務であった。すでに幕府は寛永十一年(一六三四)の触書のなかで、「悪水を滞らせず田に水を引くは在方の肝要なるに、要水川・田水堀・小溝迄浚わず、剰へ双方より狭め、或は竹木を蔓延さする事のある由聞え、本年より以後は、年々三、四月の内隣郷申し合せ、村限り掘り浚へ竹木払ひ水草窄は、根とも掘り又は刈捨るべし」と達している。したがって村内における用悪水の管理は村内農民の義務であったが、一般的に用悪水路は数村あるいは数十ヵ村にわたることが多く、部分的な川浚いや補修工事では効果が少ない。しかも土木関係の普請はその経費や労力が大きく、一村の自力では処理できないことが多い。このため用悪水の村内管理もおろそかになりがちであったとみられ、次第に関係村々による組合が組織されていった。