これら用悪水普請組合は、その村々の負担の平均を期するため、御入用普請所、自普請所を問わず多様な名目の組合が結成されたが、この結成時期については制度的に一定したものはない。早い例では寛永十二年(一六三五)二月、幕府評定所は、武州忍領域高一〇万八〇五八石余の村々に対し、領内の利根川・荒川の堤川除普請、ならびに領内井堀の川除普請を農民に義務づけた裁許を行なった。忍領内村々ではこのときから普請負担の平均を期して組合を結成したといわれる(行田市中村家文書)。当地域においても、用悪水の普請組合は、たとえば中島用水組合など、古くから結成されていてその組合機能を果していたと思われるが史料的につまびらかでない。確認できるのは綾瀬川の藻刈組合一五〇ヵ村の結成が、幕府の指示によって天和元年(一六八一)に組織されていたし、同じく幕府の指示によって幸手領をはじめ八ヵ領による葛西大用水藻刈組合が享保六年(一七二一)に結成されている。
また享保四年、中島用水の上川俣模様替えによって成立した葛西大用水の組合が、同年八条領・松伏領など八ヵ領によって組織されている。また延宝八年(一六八〇)には八条領・谷古田領・淵江領の三ヵ領によって瓦曾根溜井組合が組織された。このように用悪水普請組合・藻刈組合・圦樋普請組合・水持堤普請組合・橋梁普請組合等々大小無数の組合が必要に応じて組織された。しかも組合は関係村々によって組織されたので、一村がかかわる組合の数はきわめて多く、その数や機能をすべて明らかにすることはできない。したがってここでは、主な大組合を概観するにとどめる(第28・29・30表参照)。
年号 | 組合領名及び摘要 | 領数 |
---|---|---|
万治3年 | 松伏領・二郷半領・新方領・八条領 | 4 |
延宝8年 | 谷古田領・溯江領加入 | 6 |
享保4年 | 解散 |
年号 | 組合領名及び摘要 | 領数 |
---|---|---|
享保4年 | 幸手領・西葛西領・松伏領・二郷半領・新方領・八条領・谷古田領・淵江領 | 8 |
享保15年 | 東葛西上ノ割領・下ノ割領加入 | 10 |
天保14年 | 東葛西上下領分離(江戸川通金町から取水) 二郷半領分離(江戸川通今上村から取水) |
7 |
弘化3年 | 東葛西上下領再加入 | 9 |
慶応元年 | 二郷半領再加入 | 10 |
領名 | 村数 | 領高 | 内訳 | |
---|---|---|---|---|
万 石 | 万 石 | |||
西葛西領 | 32 | 1.1079.827 | 御料 | 1.0681.208 |
寺領 | 398.619 | |||
東葛西領上割 | 25 | 1.2638.069 | 御料 | 1.2288.746 |
私領 | 349.323 | |||
東葛西領下割 | 30 | 1.7712.244 | 御料 | 1.6769.496 |
私領 | 942.748 | |||
淵江領 | 16 | 3414.842 | 皆御料 | |
谷古田領 | 5 | 1008.062 | 皆御料 | |
八条領 | 35 | 1.9511.000 | 御料 | 1.0705.184 |
私領 | 8805.816 | |||
二郷半領 | 80 | 1.9781.260 | 皆御料 | |
松伏領 | 16 | 1.2492.758 | 皆御料 | |
新方領 | 12 | 7500.671 | 御料 | 7294.318 |
私領 | 206.353 | |||
幸手領 | 49 | 2.7505.214 | 御料 | 1.2536.448 |
私領 | 1.4969.473 | |||
合計 | 300 | 13.2744.654 |
年次 | 組合領名及び摘要 | 領数 |
---|---|---|
慶長以後 | 八条領 | 1 |
延宝8年 | 谷古田領・淵江領加入 | 3 |
享保4年 | 西葛西領・東葛西上下割領加入 | 6 |
享保15年 | 東葛西上下割領離別(松伏溜井組合加入) | 4 |
宝暦元年 | 越ヶ谷領・岩槻領・新方領加入(悪水方) | 7 |
○須賀用水組合 | |
須賀村・大戸村・大谷村・大口村・大森村・三ノ宮村・大道村・大竹村・恩間村・上間久里村・大枝村・大泊村・下間久里村・大里村・大林村・大房村・大沢町 | |
○千間堀組合 | |
大房村・大林村・大里村・下間久里村・上間久里村・大枝村・平方村・船渡村・川崎村・向畑村・大吉村・弥十郎村・大畑村 | |
○綾瀬川藻刈組合 | |
天和元年 | 戸塚村~隅田口まで 1万1513間半 150カ村 |
小組合 | 戸塚村・越巻村・七左衛門村・長右衛門新田・新兵衛新田・藤兵衛新田・大間野村 |
○元荒川境大橋・天嶽寺橋普請組合 | |
越ヶ谷領・八条領・新方領・松伏領(但越ヶ谷・粕壁両宿を除く) | |
高5万3105石4斗8升 93ヵ村 |
まず中島用水組合はそのはじめ、当地域では瓦曾根溜井を水源とした八条領と、鷺後溜井(逆川)を水元とした新方領の二ヵ領であったが、万治三年(一六六〇)松伏溜井から本田用水と二郷半用水が開発された関係で、松伏領と二郷半領がこれに加入した。ついで延宝八年(一六八〇)、綾瀬川の用水堰止めの禁止によって用水取入れの模様替えをした淵江領と谷古田領が中島用水組合に加入した。ついで享保四年、葛西大用水路の成立にともない、幸手領・西葛西領・松伏領・二郷半領・新方領・八条領・谷古田領・淵江領の八ヵ領が新たに葛西大用水組合を結成している。さらに享保十五年、東葛西上下割二ヵ領がこれに加入した。これは享保十四年の中川通り亀有溜井取払いにともない、新たに東葛西領の用水確保のため、松伏溜井から引水した東葛西用水路が開発された事情による。この東葛西用水は、葛西領小合の旧古利根川河道に貯溜されたが、この溜井を小合溜井とよんだ。その後天保十四年(一八四三)、東葛西上下割領と二郷半領は組合から分離した。これは江戸川から用水を取入れることになった関係によるものであり、間もなくこの三ヵ領は再び用水を葛西大用水に求め、同組合に復帰している。
また瓦曾根溜井組合は、はじめ八条領一ヵ領の組合であったが、延宝八年に谷古田・淵江の二ヵ領がこれに加入、享保四年には西葛西領と東葛西上下割領がこれに加入した。これは瓦曾根溜井を水元とする西葛西用水が、亀有溜井に貯溜されて東・西葛西領地域の用水に使われていたためである。ついで享保十五年東葛西上下割領が同組合から離別し、改めて松伏溜井組合に加入した。これは廃止された中川通り亀有溜井にかわり、松伏溜井から引水した小合溜井の開発によるものである。その後宝暦元年(一七五一)越ヶ谷領・岩槻領・新方領の三ヵ領が瓦曾根溜井組合に加入した。この間の事情は以前にさかのぼり、享保十一年溜井満水における水害防止のため、岩槻領・新方領・越ヶ谷領の悪水流しの関枠が、井沢弥惣兵衛によって瓦曾根溜井内に敷設された。この関枠の管理は当然三ヵ領のつとめであったが、そののち関枠の破損が多く、三ヵ領の負担による修復は困難であった。このため悪水方三ヵ領は用水方四ヵ領と接衝のうえ、ここに七ヵ領が合同することになったのである。