西方村「旧記壱」によると、瓦曾根溜井廻りの諸普請は、はじめすべてが御入用普請で施工されたが、次第に百姓役普請による施工に移されていったという。この普請勤めの方法も、はじめは家別役勤めといい、村毎に普請軒別何軒と定められ、定められた軒数に応じて普請人足が割当てられた。たとえば石高の少ない村でも、屋敷持ち百姓の多い村では家別役の比率が高くなり人足の割当てが大きい。しかし村々ではこの比率にしたがった割当てに応じ、家別に順番で人足勤めをした。この方法は農民が夫役に徴用された頃の古い形態であった。
延宝八年(一六八〇)瓦曾根溜井組合に谷古田領と淵江領が加入するに及び、瓦曾根溜井組合における諸普請は、家別役勤めから高役勤めに変えられた。高役勤めとは、村高に応じて人足や諸材料を割当てる方法である。たとえば村高二〇〇石の村と、一〇〇石の村の普請負担の比率は屋敷数に関係なく二対一の割合である。また村においても所持高一〇石の者と所持高二石の者との負担の比率は五対一となる。この高割方法は、遠隔地村々が金銭代納で人足勤めを依頼するとき、その負担額の算出が容易であったし、高持層と小前層の負担比率が所持高の隔差を反映するものであったので、小前層の成長とともに、およそ延宝期から元禄期には、この高割方法が一般的になったようである。因みに六ッ浦藩領砂原村では、元禄十三年(一七〇〇)、普請その他の夫役は今後家別役から高割役に変更する旨の通達をうけており、この請書(越谷市史(三)五一一頁)を支配役所に提出している。
しかし、なかには家別役勤めを最後まで変えなかった普請場もある。たとえば末田大用水普請組合は古来の通り家別役であり、花田村一〇人、四町野村二〇人、谷中村七人、神明下村二〇人、西新井村三八人、後谷村一八人、荻島村四八人、小曾川村二〇人、長島村六人、末田村二〇人、大間野村一四人、七左衛門村三六人、砂原村二三人、野島村六人、袋山村七人半、越ヶ谷町四四人計家別三一四軒半と定められていた。このうち袋山村と花田村は元荒川の改修によって新方領地域に移ったため末田大用水組合を離別している。
また越ヶ谷町は家別四四軒の勤めであったが、明暦二年(一六五六)の高役・遠役御免の証文(越谷市史(三)二三五頁)をもって、末田大用水の普請人足を勤めなかった。組合村々ではこれを不当とし、享保年間から度々越ヶ谷町の普請勤めを要請して訴訟をおこしたが、元文元年(一七三六)にいたり、家別二九軒で普請勤めをすることで示談が成立した。だがその後も越ヶ谷町の人足勤めに関しては組合村々との間に紛争がたえなかった。そこで幕府は寛政六年(一七九四)に、「人足勤方差支えに相成り候儀、家別勤方取極めこれあり候事、全く宜しからず候間、已来高割をもって人足相勤むべき旨」とて、家別勤めから高割勤めに変えるように勧告している。それでも末田大用水組合はそのまま家別勤めを存続させ、越ヶ谷町の家別勤めは示談をもって二三軒と定められた。さらに大沢町でも、越ヶ谷町と同じく、明暦二年の高役・遠役御免の証文をもって、用水取入れ先の須賀用水ならびに末田・須賀溜井廻りの諸普請に人足を勤めなかった。だがこれも組合村々の訴訟をうけ、享保六年(一七二一)三月、評定所裁許によって半高宛の普請勤めを申渡された。しかしほか領中の組合諸普請には、すべて八軒の家別役勤めを通した。そして、高一〇〇石につき四人以上の割当てには毎日八人を限ってこれを勤め、高一〇〇石につき三人までの割当てには半家別と唱え四人を限ってこれを勤めたという(「大沢町古馬筥」)。伝馬宿であったための〝高役免除証文〟による特権であった。
なお、河川や用悪水路等の諸普請は、御料・私領をとわず入会地では一率に負担の義務が課せられていたが、諸役免許をうたっていた御朱印の寺社領は、はじめこれを免かれていたようである。だが宝永三年(一七〇六)十二月の幕府の申渡しには「御料・私領入会普請所の内、寺社方御朱印地の分諸役免許の由にて、人足諸色差出し申さず相聞え候に付、此度御老中へ之を相伺い寺社領も自余私領並人足諸色共差出し候様相極め候」とあり、諸役免許の寺社領も私領なみに人足諸色を負担することに定められている。したがって寺社領もこのころから普請の諸役が課せられたようである。
因みに西方村「旧記壱」によると、寺領六〇石の西方村大聖寺ならびに寺領五石の瓦曾根村照蓮院は、元文四年(一七三九)と延享元年(一七四四)に施工された四ヵ村用水圦等の普請には、高一〇〇石につき金五両の割、そのほか普請見積り高に応じてそれぞれ御料・私領なみに割当てをうけている。
葛西井筋(葛西大用水路または川俣井筋ともいう)の普請仕法は、はじめ原則として人足直勤めであったが、享保年間(一七一六~三六)から藻刈を含め特定の業者に一括委託する入札請負制になったという。この仕法は、一年間に必要とする諸事業、すなわち普請場の普請見積りや藻刈入用、惣代入用などの事業予算を入札にかけ、もっとも安い経費で落札した業者にこれを委託するものであり、組合村々ではこの事業予算にもとずいて、高割合で出金すればよかったのである。おそらくこの普請請負制は、一般的にこの頃から採用される傾向にあったと思われる。たとえば、入札によるものかいなかは不明であるが、新方領・岩槻領の御料・私領二三ヵ村組合普請場、須賀堰ならびに溜井廻りの諸普請は、文政十二年(一八二九)の議定では、一ヵ年高一〇〇石につき岩槻領分村々が永四〇〇文、新方領分村々が永七〇〇文の割合で出金、これを十ヵ年季の約束で、須賀村の秀太郎に請負わせている(「大沢町古馬筥」)。
ところが葛西井筋一〇ヵ領の入札による請負仕法は、その後組合村々の不満が昂じて混乱をみせた。すなわち葛西井筋の普請請負業者は、数人の特定の業者によって構成されており、相互馴合による交代落札の噂が拡まった。このため組合では寛政六年(一七九四)、入札請負制を廃止し、組合領々から選出された惣代に、年番で事業を委託する年番惣代制の採用を四川用水方役人に訴願した。これに対し、四川用水方役人は、請負制仕法替えの理由を組合に尋問している。このときの組合の答書では、「四川用水方役人は一年に六人づつ現地に出張して普請所の見積りや出来形の調査をし、各帳面に間違いがないかをたしかめたうえそのつど捺印しているので、間違は生じにくいと思う。しかし村々に疑惑をもたれないためにも、また経費の節約をはかるためにも、領々から選ばれた惣代による年番勤めに代えてほしい」とのべている。このときの答書に添えられた寛政三年から同五年に至る葛西井筋諸入用書のうち、八条領の書上げをみると、つぎのごとくである。
八条領去亥年
一銀壱貫九百廿九匁六分三厘七毛
壱貫五拾三匁五分九厘四毛 定式自普請諸式人足代
内 百三拾六匁五分七厘七毛 川俣井筋藻刈入用
弐百五拾三匁六分四厘三毛 領代惣代諸雑用
四百八拾五匁八分弐厘三毛 川俣・川口・琵琶圦番給
去丑年分
一銀弐貫百八拾三匁弐分八厘
壱貫三百三拾六匁七分四厘八毛 定式御普請諸色人足代
内 百三拾六匁五分七厘七毛 川俣井筋藻刈入用
弐百三拾四匁壱分三厘弐毛 領代惣代諸雑用
四百八拾五匁八分弐厘三毛 川俣・川口・琵琶圦番給
当寅年分
一銀三貫四拾壱匁七分六厘四毛
壱貫五百六拾匁八厘八毛 定式自普請諸色人足代
百三拾六匁五分七厘七毛 川俣井筋藻刈代入用
弐百三拾四匁壱分四厘弐毛 領代惣代諸雑用
内 四百廿九匁弐分九厘弐毛 川俣井筋急破入用
七拾八匁四厘四毛 川俣井筋藻刈入用
百拾七匁六厘六毛 急破見届惣代入用
四百八拾五匁八分弐厘三毛 川俣・川口・琵琶圦番給
これを高一〇〇石あたりの出費でみると、八条領では寛政三年度が銀九匁八分九厘、寛政五年度が銀一一匁一分九厘、寛政六年度が銀一六匁二分九厘にあたっており、二郷半領では、寛政元年が銀六匁六分九厘、寛政三年度が銀五匁五分九厘、寛政五年度が銀一〇匁一分八厘である。したがって同じ葛西井筋の組合であっても、各領によってその負担率は若干の差異があったようである。いずれにしろ葛西井筋の請負仕法は、寛政六年から年番惣代制が許され、領々から選ばれた惣代が業者にかわってこれを担当した。
しかしこの年番惣代制もけっして順調な経過ではなかったようである。文化七年(一八一〇)になると八条領のうち西方村をはじめ一五ヵ村が、「葛西井筋用水路自普請諸入用多分相懸り、惣百姓一同難儀至極仕り候間、私共村々の儀、人足諸色差出し自普請仕立て仕りたく」とて、領中惣代年番制を離脱し、人足・材料とも直勤めすることを願いでた。この直勤め願いは、掛り役人から許されたが、果して直勤めが履行されたかどうかは疑問である。事実文化十四年になると、右の一五ヵ村は、大瀬村の常蔵と、西方村の平内両名に経費の節約を条件として惣代の引受けを願っている。さらに八条領村々は、その後葛西井筋諸普請一切を一年、高一〇〇石につき銀三一匁五分の出金で請負うことを条件に、七ヵ年季の定惣代を柿ノ木村惣兵衛に依頼している。領毎に、年番惣代制が大きくくずれていたことが知れる。しかも前記のごとく、寛政年間初期の高一〇〇石につき銀一〇匁前後であった葛西井筋諸掛りが、文政七年には高一〇〇石につき銀三一匁五分と大きくはねあがっている。これは西方村「旧記壱」にも、「自普請所多く、殊に百姓役にて仕立て仰付られ、人足諸色代大造の出金にて」と記されているように、葛西井筋においても、幕府負担による御入用普請が削減されたため、百姓役普請が増大したのがその要因の一つであったようである。