番水議定

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用水は無制限に取水されたものでなく、それぞれの組合議定でその取水の期間や時間が定められた。これを番水という。殊に田植季節には、水量の多少にかかわらず、番水によって順番に耕地へ水を引くことになっており、農民にとっては番水は大きな関心事であった。この田植季節の番水議定を、末田用水筋にあたる荻島村ほか四ヵ村の嘉永七年(一八五四)の「田方植付日割」によってみると、砂原村から番水を受けついだ荻島村は、当日の朝から三日目の夜五ツ時(午後八時)まで取水する。そのあと神明下村が当日の夜五ツ時から三日目の昼四ツ時四分(午前一〇時五〇分頃)まで取水する。これをうけて谷中村と四町野村が当日の四ツ時四分から四日目の夕六ツ時(午後六時)まで取水する。このあと越ヶ谷町が当日の夕六ツ時から四日目の朝まで取水するとなっていた。

 こうした議定に違反し、番水以外のときに汲水した農民が、村役人に叱責されて詫書をとられる(越谷市史(三)五六二頁)ことも珍しくなく、番水はきびしいものであった。また田植が終っても、その年によって渇水が続くときは、溜井水元でそのつど番水を行なうことがあった。たとえば文政六年(一八二三)は、六月中旬まで旱魃状態であったので、葛西井筋琵琶溜井ではこれに備え、番水夏季議定をとり結んだ。これによると、六月十一日夕六時から十三日午後十二時に至る二日半の間幸手領北側用水ならびに同領南側用水の圦戸を全開する。六月十四日午前〇時から二十一日正午にいたる七日半の間は、葛西用水圦戸を全開する。七月二十二日午前〇時から幸手領中郷用水の圦戸を一尺一寸開くとともに、同じく二十二日午前〇時から二十四日の朝にいたる二日半の間幸手用水南側圦戸を全開する、と定められており、この番水の期間中は各領の惣代が琵琶溜井に出張して圦戸の開閉に当った。また幕府からも用水掛りの役人が出張してこの監督に当った。なお、この琵琶溜井番水に関しては、各領少しでも多くの給水をはかろうとして、その圦戸の開閉を故意に滞らせることもあった。

 嘉永五年(一八五二)五月、蒲生村の八郎次が、琵琶溜井番水の八条領惣代として上高野村に出張した。当年は渇水の年であり各領田植に差支える状態であった。番水にあたった八郎次は、田植番水議定にもとずき葛西用水圦戸を開いたが、用水の流れゆきを見分すると称し、上高野村をでたまま番水の日割期限になっても戻らなかった。このため番水期日を迎えたにかかわらず、幸手領地域に用水が流れなかったので騒ぎとなり、ついに川俣の元圦を閉切ってしまう始末であった。用水掛り役人はこの失態を責め、八郎次を召喚して取調べようとした。ところが八郎次は用水見廻り途中急病となり療養のため家に帰ったと称し、八条領組合惣代の辞職願いを用水掛り役人に提出した。

大相模地区の田植