鷹場制度

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江戸時代、領主が鷹を放って野鳥などを狩猟(鷹狩)する特定の地域を〝鷹場〟と称した。『徳川実紀』によると、徳川家康ならびに秀忠は、民情視察を兼ねてしばしば越ヶ谷をはじめ関東各地に鷹狩をしている。しかし、当時はまだ特定の鷹場が設けられておらず、随時必要に応じて鷹狩りする場所、それが鷹場であった。

 幕府は、狩猟につかう鷹をとくに大切にし、鷹の巣の発見やその保護にも力をそそいだ。たとえば、寛永三年(一六二六)の〝鷹の巣高札〟(西方村「触書上」)には、

 (1)鷹の巣を発見した者は、本人は申すに及ばず五人組の者までも、その年における巣の番を免じ、発見者には褒美を与える。とくに新巣を発見した者には倍の褒美を与える。

 (2)鷹の巣にいたずらし、または巣の中の鷹を盗んだ者は処罰する。たとえ後日に露顕した場合であっても、本人はもちろん、その類族に対しても死罪を申渡す。また五人組の者は牢舎とする。

 (3)巣鷹の盗人を密告してきたときは、その盗人の類族であってもその罪を許し、褒美として金子五〇両を与える。

として、鷹の巣の発見を奨励するとともに、巣鷹の盗みにはきびしい処置をとると通達している。

 このように、将軍の鷹狩りや巣鷹の保護ははやくから行なわれていたが、鷹場が制度的に定められたのは寛永五年十月のことであり、江戸からおよそ五里以内の地域が将軍家鷹場に指定された。このとき鷹場地域に指定された場所とその管理者を示すと下谷・小塚原・板橋・上板橋・浅草・橋場・尾久・芝・雑司ヶ谷・品川の一〇ヵ所が代官倉橋政重の管轄に、六郷・生麦・綱島・加瀬・矢口・大井・小杉・池上・鵜野木・溝ノ口の一〇ヵ所が代官小泉吉勝の管轄、王子・岩淵・平柳・程ヶ谷・小石川が代官木部直方、志村・赤塚が代官須田成満、浦和が代官中村孫太夫、与野・うへたへが代官服部惣左衛門の各分掌に定められた。さらに千住・竹ノ塚・草加・蕨・深川・うなぎさや・葛西・市川・松戸・小合・猿ヶ俣・戸ヶ崎・木曾根・鶴ヶ曾根・はちちやう・花股・舎人・沼田・石井・小松川・さゝめ・早瀬・やかう・行徳の二四ヵ所が代官伊丹之信の管轄とされたが、これら地域は、沼辺・世田谷・中野・戸田・平柳・淵江・葛西・八条・品川の九ヵ領にわたっていた。

 そしてこれら地域には、同時に〝放鷹場制札〟五ヵ条の立札が建てられた。この制札は、第一条から第四条までは、黒印の木札を所持した者以外の放鷹は許可されないので、万一黒印の木札を所持しない者が鷹をつかっていたときは、早速役所へ注進することを命じており、第五条では、「在々所々に怪しい者を一切置かないように」と命じている。鷹場の設定は、野鳥などの保護とともに、江戸周辺地域の治安を同時に狙ったものであったのは、この第五条でも明らかである。放鷹の許可証である黒印の木札をこのとき与えられたのは、加藤伊織・戸田久助・小栗長右衛門・阿部新左衛門の四人の鷹匠頭であった。

 ついで正保四年(一六四七)十二月にも、鷹場制札三ヵ条が改めて鷹場村々に出された。これには、

 (1)鷹場内で許可なく鷹をつかったり、野鳥を殺生する者のないよう、油断なく見廻ること。

 (2)許可を得たと称して鷹をつかい、野鳥などを殺生する者を見つけ次第、その者の人相や屋敷を見届け、老中松平伊豆守信綱まで直々に注進すること、これを見のがし聞のがしにした者は処罰する。

 (3)夜中に野鳥などを殺生する者がいるので、たえず夜廻りを行ない、もし殺生人を見つけてこれを訴えでれば、たとえ類族であってもその罪を許し、褒美として金銀、あるいは殺生人の田畑を与える。

とあり、鷹場内の密猟に対する幕府のきびしい処置が示されている。この禁令は、高札に記して村々に立てられたものであり、鷹場とはどのような場所であるかを、農民に徹底させようとしたことが知れる。

 なお寛永十年二月、江戸を中心とした五里四方の将軍家鷹場の外側で、江戸からほぼ一〇里以内の地域に、徳川御三家等の鷹場が与えられた。大門会田家文書「会田落穂集」によると、武州足立郡の内指扇領・大宮領・木崎領・南部領・平方領・植田谷領・小室領・赤山領・岩槻領・与野領・桶川領・浦和領・大谷領の一三ヵ領の地域の内が紀伊家鷹場に与えられている。

 また、下総国小金領地域が水戸家鷹場に、武州清戸と八王子地域が尾張家鷹場に、そのほか、武蔵・相模の内に加賀藩前田氏の鷹場、武蔵の府中・石原ならびに羽生領に甲府松平氏の鷹場が設定されていた。