鷹場の職制

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江戸幕府の鷹場に関する職制には、鷹匠と鳥見の二系統が置かれていた。鷹匠そのものの起原は古いが、幕府の職制としては慶長年間の設置といわれ、慶長十二年(一六〇七)小田原北条氏の遺臣間宮左衛門信繁が、鷹師を支配する鷹師の頭に任命されている。はじめは将軍の直属に置かれていたようであるが、幕府の職制一般が整備されて後は、若年寄の支配に置かれるようになった。

 鷹匠たちの勤務するところを鷹部屋と称し、はじめ本郷弓町にあった。そしてかれらの住居する町が鷹匠町で、寛永二年(一六二五)に旗本の屋敷割りのとき、後の神田小川町に鷹匠町が設定された。なお本郷弓町にあった鷹部屋はその後享保二年(一七一七)に雑司ヶ谷と千駄木町の二箇所に移されている。

鷹部屋(宮内庁刊『放鷹』)

 鷹匠は、鷹場の村々を泊り歩き、鷹場の監視や鷹の飼育、及びその訓練にあたるとともに、将軍の鷹狩りにしたがってこれに奉仕した。また、諸国を歩いて巣鷹を探すことも重要な任務の一つであった。

 このような任務をもった鷹匠の系統には、鷹匠を支配する鷹匠頭のほか、犬牽と餌差が配置されていた。犬牽とは狩猟のとき、勢子人足とともに獲物を追いだすための犬を扱う役である。この犬は、鷹部屋に付属した犬部屋で、犬牽によって飼育・訓練された。慶安元年(一六四八)に、鷹匠の一人に犬を預け、同心二名をこれに所属させたのが犬牽頭の起原であるといわれる。

 餌差というのは、鷹に与える生餌を集めて鷹を飼育するのが主な役目であり、本郷餌差町が餌差たちの居住地であった。もっとも鷹の餌鳥に与える餌であるけら虫・くもなどは餌差が直接採取するのではなく、江戸周辺の村々から高掛物(高役)として上納させていた。明暦二年(一六五六)九月、日光道中千住から栗橋までの六ヵ宿が、伝馬など課役負担の過重と宿の窮乏を理由に、高役の免除を訴願して許されたが、この高役の一つに「御鳥の餌、籾・くも・けら、惣て御城様御用物納め申し候事」とある。また、「御鷹の餌犬千石につき、一年に六疋のつもり、一疋につき銀二三匁五分づつ納め申し候事」とあり、犬の現物納のかわりこれを代銀で納めさせている。さらに西方村の安永二年(一七七三)の訴訟書に「西方村ではけら虫一万疋宛、夏と冬に上納している」とある。

 鷹匠が鷹に関することを扱うのに対し、鷹場の管理にあたるのが鳥見である。鳥見は家康時代から存在していたが、職制として制度化されたのは、寛永二十年(一六四三)の九月、鳥見役一〇名を改めて任命したときからであるといわれる。ついで承応二年(一六五三)には、鳥見の大平角助俊宗・幸田孫助友治の両名が鳥見の巧者として鳥見頭を命ぜられた。

 鳥見は鷹匠と同じく若年寄の支配にあったが、鷹匠の系列とは別個であり、独自な任務を帯びていた。かれらの職務は鷹場村々を巡視し、野鳥の繁殖状態や鷹場の整備状況などを視察し、農民を指揮督励することにあった。また、将軍の放鷹の期日が近づくと、餌をまいて野鳥を集め飼い付けするのもその役目の一つである。しかし鳥見は鷹場の管理を表面の任務としながら、実は地方の探索を職としており、外聞をはばかって鳥見と称したのだともいわれる。江戸の近郊にしだいにふえてきた諸大名の下屋敷や、抱屋敷の庭に、野鳥の状況を調べると称して自由に出入し、ひそかに屋敷内の動静をさぐったともいわれる。

 なお御三家鷹場のうち、紀伊家鷹場地域の鳥見役には、はじめ幕臣の公儀鳥見、大平角助・都筑善九郎・内山三之丞の三名が任ぜられ、浦和領谷場村に下屋敷を構えていたという。さきに述べたごとく、大平角助はのちに鳥見頭に任ぜられた者である。その後慶安年間(一六四八~五二)頃より、星野権兵衛・松本孫右衛門・八木橋七兵衛・会田平左衛門ら在地の有力農民が紀伊家鷹場の鳥見に任ぜられ、以後、世襲でこれにあたる家が多かったようである(「会田落穂集」)。