生類憐み令と鷹場の廃止

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家康以来さかんに行なわれてきた鷹狩りは、五代将軍綱吉による〝生類憐み令〟に関連して中止された。まず元禄六年(一六九三)六月に、御三家その他の鷹場が幕府に返上された。同年九月には幕府も放鷹を廃止して鷹部屋に飼われていた鷹を、残らず伊豆の新島に放した。ついで元禄九年十月には、鷹匠や鳥見の役も廃止し、鷹匠町は小川町、餌差町は富坂町と町名も改められた。また、無役となった鷹匠のうち、犬の飼育や訓練にあたっていた五名の鷹匠が、野犬などの保護養育のために新設された大久保犬小屋の支配に任ぜられた。

 こうして鷹場は制度的にも廃止された。しかし、もと鷹場地域における野鳥や川魚などの殺生取締りは、鳥見役から代官所に移管され、依然厳重な監視が続けられた。

 元禄九年三月、越ヶ谷領大間野沼に丹頂の鶴二羽と、七左衛門新田沼に真鶴一羽が放飼されたが、この鶴が他所へ飛んでいったときは、三、四人の番人をつけてその状況をいちいち役所に注進することになっていた。その後、この鶴の保護監視の義務はいよいよきびしくなり、元禄十一年には御料・私領・寺社領の別なく、飛行先の村で番人をつけ、六日目ごとに鶴の様子を、小日向台町御鷹部屋御用屋敷の寄合番支配岡田甚右衛門宛に注進するよう命ぜられている。

丹頂の鶴

 このほか、旧鷹場内地域で鳶や烏が巣をかけたときは、早速この巣を取払うことになっており、巣かけの状況を毎月一日・七日・十三日・十九日・二十五日を定日として、同じく寄合支配に注進することになっていた。これだけでも、旧鷹場内村々の農民は、鷹場廃止後も余分な負担を蒙っていたことが知れる。