鷹場の復活とともに鷹場の職制も復活され、この総括者として若年寄大久保佐渡守常春が任ぜられた。任にあたった大久保佐渡守により、鷹部屋の設置と鷹場役人の選任が進められたが、その結果享保元年八月、新番士戸田五介勝房と、小普請組間宮左衛門敦信が鷹匠頭に任ぜられ、千駄木と雑司ヶ谷に設けられた鷹部屋の支配を分掌した。戸田氏は代々千駄木の鷹部屋の鷹匠頭を世襲したが、雑司ヶ谷の鷹部屋を分掌した間宮氏は同年十二月、小栗長右衛門正等と代り、ついで同十一年森川金右衛門、同十六年小林十郎左衛門、明和七年(一七七〇)内山七兵衛と、しばしば鷹匠頭を交代している。なお、享保四年当時、千駄木の鷹部屋には、大鷹三五居、鷂(はいたか)十三居、隼(はやぶさ)六居合計五四居を飼育していたという。これら鷹部屋には、一名の鷹匠頭の下に、蔵米二五〇俵取の鷹匠組頭が二名から三名、蔵米一〇〇俵、三人扶持の鷹匠が十余名、鷹匠同心五〇名、犬牽六名が配置されていた。このうち犬牽は、その後鷹匠支配から先手頭兼鉄砲方に所属され、犬牽頭に佐々木勘三郎孟成(たけなり)が任命された。佐々木勘三郎は御鉄砲方与力高六〇石の幕臣であったが犬牽頭に登用され一〇人扶持が与えられた。その配下には世話役見習とともに、二人扶持を給付された犬牽二九人が配置されている。これは鷹をつかったたんなる放鷹から進んで、鉄砲を使う大がかりな鹿狩りや追鳥狩りが、行なわれるようになったためである。
また鷹部屋所属の餌差も復活された。餌差は、はじめ幕府から扶持を与えられ、〝御用餌差〟または〝雇餌差〟と呼ばれた。御用出張のときは、五人に一疋宛の伝馬(無賃馬)が与えられ、さらに二人につき水夫人足昼夜一人宛の使用を許されるなどの特権が与えられていた。
享保七年(一七二二)十月、この幕府雇いの御用餌差が廃止され、新たに麹町平川二丁目五郎左衛門ら江戸町人八名に餌鳥の捕獲を請負わせることになった。これを〝町人請負餌差〟といい、各請負餌差に鷹場立入り許可の鑑札が渡された。これら請負餌差は、同年十一月、御鷹部屋宛に、「餌鳥請負証文」を提出した。
すなわち、御鷹餌鳥の御用ならびに野先御用ともに、金一両につき雀三八〇羽の割でこれを請負う。餌鳥の代金は二ヵ月以前に金二〇〇両を前借しておき、二ヵ月後に差引勘定をする。餌鳥の鑑札は三〇〇枚預かり、関八州内で差支えないよう殺生人を仕立て餌鳥を調達する。このため殺生人が廻村のときは、たとえ一人で廻村の場合でもその宿泊のときや、荷物持人足を雇うときは相対の木銭・賃銭で便宜をはかるよう、あらかじめ村々に触を廻していただきたい、という趣旨のものである。
また鷹場を管理する鳥見の役も、享保元年八月に鷹匠の復活とともに再置され、鳥見八名、組頭一名が置かれた。西方村「触書上」の「御鷹場法度手形」の請書にによると、このときの鳥見役には、若林伊左衛門・戸田庄右衛門・内山源五右衛門・佐藤伊左衛門・樋口九十郎・林伝右衛門・山口六太夫・幡野市重郎の名が記されている。
ついで享保三年、将軍家鷹場の拳場地域が、葛西・岩淵・戸田・中野・目黒・品川の六筋に編成されると、同年六月、上目黒・東大森・志村・亀有・東小松川・上中里・高円寺の七ヵ所に鳥見の役宅が設けられ、各役宅に鳥見が在勤するようになった。これを〝御在宅御鳥見〟と称した。鳥見はその後増員され、高二〇〇俵五人扶持、役金二五両の組頭が二名、高八〇俵五人扶持、役金一八両の御鳥見二二名、このほか見習一三名の構成となり江戸近郊七ヵ所の御鳥見役宅に分住した(「吏徴」)。当地域の西方・東方・見田方・南百・麦塚・別府・四条・千疋の各村々を含む八条領は、亀有村に役宅を構えた葛西筋鳥見役の管掌下におかれた。
このほか鷹場に関する諸御用は、馬喰町の関東郡代伊奈氏の役宅のうちで行なわれたが、これを鷹野役所と称した。鷹野役所では鷹場に関する御用状の廻送、人足の調達、金銭の出し入れ、さらに将軍の放鷹に際した諸事務等を扱った。この鷹野役所は、その後寛政四年(一七九二)三月、伊奈右近将監忠尊が関東郡代職を罷免された際、「御鷹野御用一件、此度御勘定所御懸りに相成り候」(西方村「触書中」)とあるように、勘定奉行所の取扱いに移管されている。
このように将軍家の鷹場と鷹場役人の職制は、八代将軍吉宗によって享保元年に復活整備された。このほか、将軍家鷹場江戸五里四方の外側に、徳川御三家などの鷹場が再び設けられ、また〝御鷹捉飼場〟と称される鷹の訓練に使用された鷹匠頭支配の鷹場も設定された。