拳場(将軍家鷹場)に指定された八条領の村々は、享保元年十月、〝御鷹場法度手形〟の請書を公儀鳥見に提出した。これによると幕府が令した鷹場法度手形の内容はつぎのごとくである。
(1)将軍が御成りになる道はもちろん、脇道や橋なども鳥見衆の差図次第に造成する。竹木の枝をおろし往来の障りにならないようにする。
(2)鷹場で許可のない放鷹はもちろん、たとえ公儀の鷹匠であっても、鳥見衆の案内がなければ鷹をつかわせない。
(3)鳥を追払うことはしない。鷹場の番人は常に二人づつ置いて監視させる。
(4)鑑札を持たない餌差はよく改める。鑑札を持つた餌差でも、雁・鴨以上の大鳥はもちろん、ひばり・ばん・うづら等は一切取らせない。雁や鴨が飛来している間は、池・沼・川・野田に切網・打網・もち縄をつかわせない。違反者は捕えて鳥見に注進する。
(5)地頭・代官そのほかだれであっても、御法度の鳥はもちろん、小鳥でも取らせない。もし殺生人がいたときは早速注進する。また鷹場内で弓・鉄砲を持ち歩いている者がいたときはこれを捕え鳥見に注進する。
(6)村々に身元不明の浪人や出家、そのほか不審な者が来たときは、寺内へも立入って探索し、一夜の宿も貸してはならない。乞食であってもこれをよく吟味し、あやしい者は村内へ一切置かない。
(7)新寺・新社ならびに野田へ新屋敷を建ててはならない。
つまり拳場を取締る鳥見の権限は、浪人や出家はもちろん、地頭・代官・鷹匠などにも及び、しかも寺社領など支配領域を超えた探索を許され、家屋造成の規制をも行使できた。これら鳥見の特殊な機能が、この〝御鷹場法度手形〟の請書からうかがえよう。鷹場の設定や鳥見の配置は、単なる講武や遊楽のためばかりでなく、多分に政治的な配慮にもとずくものであったといえる。なお鷹場法度手形に示された鷹番(鷹場番人)の呼称は、享保二年八月に鳥番と改められたが、享保六年七月に鳥番が廃止され、村々の鷹番小屋が取払われている。
こうした職能をもった鳥見は、多く少禄の幕臣から任ぜられ、若年寄の支配に属して挙場の管理にあたったが、捉飼場そのほか他地域の鷹場を取締ることもあったようである。たとえば「大沢町古馬筥」によれば、宝暦六年(一七五六)二月、鷹匠頭戸田五介支配の捉飼場に所属する大沢町で、この地の住人五郎右衛門が、密猟の水鳥を商売していたため、葛飾郡亀有村常駐の鳥見によって摘発され捕縛されている。また東方村中村家の文化八年(一八一一)九月の鷹野役所の触書によると、幕府は掛り鳥見宛に、「御拳場は勿論、御鷹捉飼場とも繁々廻村いたし候様」申渡している。
つぎに鳥見がしばしば令した〝鷹場法度証文〟についてみよう。この内容は年代や地域によって若干異なるが、たとえば享保九年十月の東方村中村家文書によれば、およそつぎのごとくである。
(1)田畑のかかしも指図にしたがってこれを立て、すべて鳥を追いたてることはしない。
(2)田舟なども、用のないときは陸に上げておく。
(3)鳥が騒いでいるときは昼夜の別なくその旨を直ちに届けでる。あやしい者には宿を貸さない。
(4)病鳥や落鳥を見つけ次第、早速届けでる。
(5)鳥の居付場所に家を一切建てない。
(6)御鷹御用で廻村する役人があればこれを届け、また鷹場鑑札をよく改める。間違いなければ必要な人足を差支えなく調達する。
(7)八月から翌年二月までは、川や沼において一切魚猟はしない。
とある。そして時代が下るにしたがい鷹場取締りは、治安維持の面が強くなっていった。たとえば東方村中村家文書文政十一年(一八二八)の「御鷹場御取締連印請書」によると、
(1)他所の者が村方に入りこんでは、取締りがよろしくないので、これら他所者を決して止宿させない、
(2)風俗の悪い者は、親類・縁者・懇意な者であつても村内に置かない、
(3)博奕ならびに諸勝負は決してやらない、などの条文がみられる。
このように鳥見は密猟者の摘発のみでなく、博奕その他風俗のよからぬ者までこれを取締った。このほか家作の新築・増築、立木の伐採における許可・不許可の権限を与えられ、屋根の葺替・潰屋・焼失家・田舟・飼犬の届出、あるいは代官・領主の交代なども、逐一村方からこれを報告させた。代官らが、自分の家を造作するにも、鳥見へ届けねばならなかったのである。さらに寛政年間からは、しばしば農間渡世人の調査も行なっており、経済統制や治安維持のための情報機関として、広範な職能を行使していたようである。